ペット
□このままずっと
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温かく、力強い安室さんの腕。
男の人にしては安室さんは細い方だと思うけれど、それでも安室さんの身体は大きく、抱きしめられるとすっぽりとその身体に収まってしまう。
シチューの良い香りが漂う。
どくん、どくんとゆっくり、ゆっくり心臓が鳴っている。
きっとさっきの電話で何かがあったんだろう。
帰ってから安室さんは難しい顔をしていたし。…今は、何故か抱きしめられているし。
だけど別に嫌な訳じゃない。寧ろ気持ちいいと思うほど、くっついた体温が心地よい。
もう少しだけ、こうしていたい。
このままで良い訳がないと分かっていた。
自分は逃げているんだ。何もかもが上手くいき過ぎている。
怖い。この生活が壊れるのが。
先生に会って、はっと気が付いた。
自分の置かれている立場や、今まであったお姉ちゃん、ママのこと。
だけど、もう少しだけ、このままで。
安室さんの優しい手が私の髪の毛を撫でる。
こうされるといつも私は安心するのだ。
顔を上げると目の前にある、安室さんの顔。
この人に私は救われたんだ。
私を見つめる瞳は初めて出会った時と変わらず穏やかで力強い。
安室さんの手が静かに頬に移動した。
いつもとは、何かが違う。
図らずとも身体に力が入る。
『…………』
微かに呟いてから、安室さんの身体を離した。
安室さんの目を、顔を見ていられなくて、違う部屋に駆け込んでドアを閉める。
安室さんは追いかけてこなかった。
それでも心臓がまだ、ばくばくと大きく鳴っている。
キス…は、できなかった。
落ち着いて考えると今更ながら頬が赤くなる。
ごめんなさい、あの時呟いてしまった。
あれは…一体、なんのごめんなさいだったんだろう。
安室さんを拒んでしまったから?
だけど、私はあの時…それでも別に、いいと思ってた。
あと1秒でも安室さんの顔が近づいてくるのが早かったら私はきっとあのまま…。
…ううん。違う。それでもきっと私はそれを拒んでいただろう。だって。
そう、私はあの時、安室さんに先生を重ねていた。
先生と賭けをして、安室さんがあの廃工場にきて、会いに行こうと駈け出した瞬間のあの出来事と。
あの時、先生は走り出す私を引き留めて、手紙を渡した。
そこまでは良かった。だけど、あの時。
先生は私をぐっと引き寄せて、優しく口づけをした。
初めてだった。あの時の感触は、今でも鮮明に覚えている。
だからきっと私は安室さんにごめんなさいと言ったんだ。
安室さんの瞳は真っ直ぐ私だけを見つめていたのに、私はそれを先生と重ねてしまったから。
これから、どうしたらいいんだろう。
窓の外を見ると、昔と変わらない星空が、静かに街を見下ろしてた。
ごめんなさい。
彼女は確かにそう言った。
小さな小さな声で。それでも確実に、はっきりと。
あれは、なんのごめんなさいだったんだろう?
美奈の考えてることなんて、普段なら大体は想像できた。
だけど今は、自分のした行動に、そしてそれを拒まれてしまったことに柄にもなく動揺してしまって美奈のことを全く読むことができなかった。
僕は…焦っているんだろうか。
そう、彼女はしっかりと捕まえておかないといつのまにか僕の腕をすり抜けていってしまいそうだから。
夢は夢である以上、いつかは醒めてしまう。
もう…この幸せも長くないのかもしれない。
胸の中で徐々に強まっていく不安感。
嫌な予感というものは、大体当たるものなのだ。
ふう、と小さく溜息を吐いた。
窓を開けると涼しげに入ってくる風。
それは確実に、夏の終わりを示していた。
150218