ペット

□約束の場所で会いましょう
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安室さんへ。

何も言わずに出てきてしまってごめんなさい。



「…今日だね。安室さんには連絡したの?」


『うん…一昨日に、安室さんのお家に手紙送っておいたから…』


「見てるはずよね。…美奈ちゃん、本当に綺麗。その浴衣、すごく似合ってる…」


『ありがとう…。この浴衣、貸してくれてありがとうね。とっても綺麗な色で素敵…』


大切なこと、色々考えました。安室さんにきちんと言葉で伝えたいです。


「迷子にならないように…本当に一人で行くのね?」


『うん。一度行ったことがあるから大丈夫。誰かに頼ってちゃダメなの。私で…私が、終わらせなくちゃ』


10月23日、一度安室さんと行った河原で待っています。


「そっか…。無理しないで。何かあったら連絡してきてね」


『うん!蘭ちゃん、本当にありがとう…。…じゃあ、行ってきます』


安室さんが、まだ私を許してくれるのなら、午後6時、花火を見たあの場所に来てください。 美奈より







『…うーん、下駄って歩きづらいなぁ…』


時刻は午後5時ちょうど、蘭ちゃんの家を出る。黄金色に染まる街は、直ぐ近くで祭りがやっていることもあってか少し騒がしい。

今日は運命の日。そもそも安室さんがその場所に来てくれるのかどうか…、仮に来てくれたとして、私の言葉を、きちんと伝えられるかどうか。

何も、何も分からないけど。だけどもう行くしかないんだ。

このまま行けば30分前には約束の河原に辿り着けるだろう。6時になれば花火が始まるから、わざわざ何度も時計を確認しなくても大丈夫。
逸る気持ちを抑えてゆっくりと騒ぐ街を歩く。


最初に夏祭りに行った時は、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
ただ毎日がキラキラと輝いてて、日本に来たことが楽しくて仕方なかった。

だけどこの幸せはずっとは続かない―。
いつまでも、どこまでも逃げる続ける訳にはいかない。いつかは追手に捕まって、くだらない現実に戻ってこなくちゃいけない。

全部、分かってた。だけどわざと考えないようにしてたんだ。

それは多分…もう、安室さんのことを好きになりかけていたから。


美奈。


私を呼ぶ柔らかな声が聞こえたような気がして、思わず辺りを見渡す。もちろんそんな人はいない。もう…あの優しい声も聞けないかもしれないんだ。

当たり前の日常なんて、最初から無かったのに。なのに私は…そんな一時の儚い日常が、ずっと続くんだって、優しい安室さんに甘えてた。

失ってから気づくのでは、遅すぎる…。

…大丈夫。きっとまだ失ってない。そんな簡単に失えてしまう日々じゃない…。

ぼんやり、そんなことを考えながら歩いているといつの間にか約束の場所に辿り着いていた。周りに人がいないのを確認してそこに腰を下ろす。


『…………』


もう、随分陽も落ちてきた。携帯の時間を確認すると17時35分。あと30分弱だ。

周りにもだんだんと人が集まってきた。カップルに家族連れ、友人同士…。だけどきっと、ひとりで来ているのは私だけだろう。

カナカナと鳴く秋の虫。高く伸びるオレンジ色の空。それを映す煌めく河。

夏が終わるんだ。

目を閉じて、日本の季節の変わり目をなんとか心にとどめようとする。


…日本に、来てよかった。お屋敷で閉じ込められてた日々からは想像もつかないくらい自由で、輝いてて、いろんなことがあった…。

私自身も大きく変わったし、だからこそもうあの窮屈な日々には戻れない。

とにかく今は進むしかない。お見合いは…嫌だけど、だけどきっとあのお家に戻るよりはなんとかなる気がしてくる。

…だからもう一度会いたいの、安室さん。

私の気持ちを受け止めてくれるかどうか、もちろんそれも…とっても重要なことだし、それによって私の人生は大きく変わることになるだろう。
だけど最も重要なのはそこじゃない。大切なのは、私の本当の気持ちを伝えること。

震えてしまいそうになるくらい怖いこと。…逃げたってかまわない。だけど逃げてもきっと同じこと。

…安室さん。あなたのことが…好き。

ただ、私の気持ちはそれだけなのだ。


もう空は藍色に変わって、周りの騒めきも大きくなりだした。子どもの話し声が耳につく。―あと5分だね。


…あと5分。あの時も安室さんは来てくれたから。秀一先生と倉庫で待っていた時も…ちゃんと、来てくれたから。

…きてくれる、よね?

手が震える。どこかで安室さんは必ず来てくれると信じていた心が、少しだけ揺らいだ。

花火、待って。まだ、始まらないで。

気の遠くなるような時間だった。早くその焦りから解放して欲しいという気持ちと、安室さんがくるまでその時がきませんようにと願う気持ちが交互に出ては引っ込んだ。

自分の左手を、右手でつなぐ。手が冷たい。…安室さん、今すぐ私の手にあなたの手を重ねて。温めて。あなたのその優しい手で…。


『あ………』


思わず顔を上げた。空に咲く、満開の花。その時刻が来たのだ。
遅れて響く火薬の音が、やけに胸に響いて苦しかった。


『……っ……』


まだ、可能性はあるかもしれない。もしかしたら私を見つけられていないのかもしれない。
だけどそんなことは、ただの自分の未練だと思わずにはいられなかった。きっちりと時間を守る安室さんが、時間通りに来ない訳がないから。

私にあるのは、今となりに安室さんがいない。その事実だけなのだ。


『ふ…っ……っく…っ、…っ』


耐え切れない、熱い涙が頬を堕ちる。花火が綺麗だ。綺麗だから余計に涙が出る。

そんな簡単に失えてしまう日々じゃない、だなんて。もうとっくに失っていたのに。本当に鈍くて馬鹿なんだ、わたし。

失っちゃったら、気持ちすら、伝えることができないんだ。そしてそれはとっても苦しくて、歯痒くて、どうしようもなく辛くて痛いことなんだ。

本当、ただの自惚れ…。ああ嫌だ、涙が止まらない。もっと早く気が付いていれば…幸せな時間は長かったのかな…。


花火。赤や黄色に彩られた閃光が一瞬にしてはじけて、瞬く間に消えていく。光の残像が、闇の中に溶けてゆく。それはほんの一瞬の出来事。燃え上って、はじけて、輝いて、そうして夏が終わるんだ。


『…………』


綺麗。だけどもう、会えないね。


大きく咲く花を背に、おもむろに立ち上がって歩き出す。

火薬の音が、まるで心の叫びみたいに胸につっかえて、苦しくて、そうしていつまでも鳴り続けていた。




160303

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