ぜろ

□すべてのはじまり
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約一年と半年前―――



「……取引は今から二時間後。私が標的を例の場所へ追い詰めるから、後は貴方の好きなようにして」


「標的の特徴は?」


「そうね…大柄だけど大きいのはお腹だけね。仮に逆上してきても貴方の手の焼くような男じゃないわ、バーボン」


「なるほど…感謝しますよ、あなたの精確な情報にはね…ベルモット」


妙に張りつめた空気を、心地よいとすら感じてしまうようになったのはいつからだったろうか。


「どうしてこんな簡単な仕事をわざわざ二人でしなくちゃいけないのか分からないけど…まぁ手は抜かないことね。ボディーガードがついているかもしれないから」


「それはまぁ…ボスお得意の念には念をってヤツでしょう。さて…もうすぐ米花町に着きますよ」


「ありがと、私はもうここでいいわ。後は手筈通りに」


「えぇ…では、また後で」



米花町の春は綺麗だ。桜並木の道を潜り抜けると桜が舞い散り、まるで祝福でもされているような気分になる。

さて、まだ少し時間がある。何をして時間を潰そうか…。


車を適当な場所に止めて外に出る。気怠さを孕んだ春の温かい午後。オレンジとピンクの光の洪水。微かに漂う花の甘い香り。

ぐるっと一周この辺りを歩いてみるのも悪くない。標的に逃げられた時のためにも、周辺の地形を把握しておくのは有益なことだろう。

一歩。また一歩。ゆっくりゆっくり桜に囲まれた道を歩いてゆく。公園、店、小学校…、良い街だ。手の届く範囲に色んなものがあり、それでいてのどかな街。


塀の横を通り過ぎていくと、突然聞こえた歓声。何事か、とそちらに目を向ける。学校の中庭に大勢の人が集まっていた。この時期だ、恐らくは合格発表か何かだろう。


懐かしい。自分にもかつてそんな時代があったものだ。警察学校に入学が決まった時は、努力の成果だと思いながらも、内心どれだけ嬉しかったことか…。


見るとはなしにその光景を見ていると、ふと目に留まった女の子。幼さの残るあどけない顔立ち。懸命に合格発表の掲示板を不安そうにしばらく見た後、あっと小さく唇が動いたかと思えばたちまちその表情は緩み、安堵の色が溢れだした。

合格、したのか…。

名も知らない、恐らく今後一生関わることのない少女におめでとう、と心の中で呟く。綺麗な目をした女の子だ。真っ直ぐ凛と立つ容姿、汚れの無い瞳。
その全てになにか惹かれるようなものを感じながらも、ある疑問が拭えなかった。

――何故彼女は、ひとりなのだろう?

家の事情だとか、仕事の都合だとか、きっと自分には分かるはずもない事情が沢山あるのだろうが、なんだか…彼女を見ていると…。


その少女は唐突に携帯を取り出し、嬉しそうに電話で話し出していた。身内…もしくは余程仲の良い友達にかけているのか…。

電話の内容はきっと合格したということだろう。それでも嬉しそうに話していた瞳が一瞬、切なく揺れて、ハッと息がつまるような感覚がした。


どうして、今…。
何故だかは分からない。それでも何故か、その切ない瞳に酷く不安になった。知りたかった、何故、そんなに寂しそうなのか―。

そして彼女はぷつりと電話を切ると、また、あの切ない瞳を周りに向けた。何を見ているのだろうか。知りたかった。初めてだった、こんなにも人の事を知りたいと思ったのは。

不意に空を見上げ、それから耐え切れないと言ったように目を手で覆った。泣いている…?とても嬉しくて泣いているようには見えなかった。何故か彼女の泣いている姿は酷く胸に突き刺さった。

綺麗な涙。宝石のようにキラキラと光り、滑らかに頬を滑り落ちる。その姿からは孤独感が滲み出ていた。

ひとりぼっち。なのか…。

強い瞳をした、寂しそうな女の子。孤独な魂。彼女の孤独に寄り添ってくれる人間はいるのだろうか。その儚い魂に、そもそも気づいてくれる人間はいるのだろうか。


「瑠璃−−!どうだったのよー!」


僕のすぐ後ろでカチューシャをしている金髪の少女が叫んでいた。その言葉に振り向いたのは先ほどまで僕が見ていた少女だった。


『園子ー!蘭ー!えへへ!受かったよー!』


それは一瞬の出来事だった。すっと目元を拭ったかと思えばもうその瞳には哀しい色など微塵も浮かんでいなかったのだ。

いや、浮かんでいないというよりも、必死にそれを隠している様子だった。誰にも気づかれないように、悟られないように。

だけど僕は、僕だけは知っている。彼女の孤独な魂を。僕だけは気づいている。彼女の本当の気持ちを。


彼女が僕の方に向かってくる。そしてそのまま横を通り過ぎた。その時に確信した、彼女のどこか寂しげな瞳に。きっと誰も知らない押し殺した悲しみに。

いつか彼女が僕に向かってきてくれたら。
その日がくるのを願わずにはいられなかった。


「瑠璃!蘭!合格祝いにぱーっとケーキでも食べに行こうよ!」


『うん!クッキー置いてるあのお店がいいな!』


「瑠璃はホントにクッキーが好きだよね…」


瑠璃。瑠璃。


忘れないように、彼女の名前を心の中で復唱する。
僕が君を守ってあげるから。君の本心に気づいた僕だけは、君を一人になんかさせないから。


桜吹雪に揺られて現れた、瑠璃。
彼女の後姿をちらりと見てから今はまだ、別々の道へと歩き出す。


それでも何時か、同じ道を歩き出すその日は、そう遠くない日のように思えた。







160107

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