ぜろ
□あめ
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また、雨が降り出した。
ポアロの外の世界を眺めながらそんなことを思う。
ここ数日、ずっと雨が続いている。秋の雨は確実に冬を運んでくる。雲で翳った冷たく暗い世界は嫌いじゃない。それは太陽の慈愛に満ち溢れた世界よりもずっと落ち着くから。
彼女を追いかけ、米花町に来て数日がたったが未だに彼女とは顔を合わせていない。
僕からは会いにいかない。それは決めていた。出会いはあくまで自然でなければいけない。僕は彼女の事をよく知っているけど、彼女は僕の事を知るはずもないのだから。
僕は此処で待つ。彼女はもうすぐこの店に訪れる。その予感は当たる気がしていた。
「あ、安室さん。その席…空けといてもらえますか?」
「え、えぇ…常連さんの席ですか?」
「えぇ!多分テスト期間だしもうそろそろくると思うから…。小さいころからよく来てくれた女の子なんですけど」
瑠璃だ、と直感的に悟った。
彼女は僕を見たらどんな表情をするんだろう?きっと何も思わないだろうが、彼女の中に僕が「存在」する、そう思うだけで胸が高鳴るのを感じた。
漸く、あの子に、会える。
からんころん、と耳当たりの良い音が聞こえ、反射的に出入り口に目をやる。
「あら、瑠璃ちゃん!」
『梓さん!今日からしばらく席借りますね…どうしても家じゃ集中できなくて』
「ゆっくりしてってくれていいのよ!そろそろくるんじゃないかなって思っていつもの席、空けといたから…」
『さ、流石です梓さん…!ありがとうございます!』
「ホットコーヒーでいいかな?」
『ハイ!お願いします!』
1年ぶりに会った彼女は少し大人になっていて、同時に瞳の奥の押し殺した影は増しているようにも見えた。
皆に振りまいている、あの純粋な笑顔は決して嘘の笑顔と言う訳ではないのだろう。
ただ、誰も気づいていないだけなのだ。よく見れば分かりそうなものなのに、誰も彼女をよく見ようとしないのだ。
それは彼女が自分自身を明るく振る舞うことで守っているからに違いないのだろうが。
「あ、安室さんちょっとそのコーヒー…瑠璃ちゃんの席にお願いしていいですか?あ、さっき来たのが常連の瑠璃ちゃんで…」
「分かりました。梓さんは事務の方してくださって大丈夫ですよ!今はそこまで混んでいませんし…」
「本当?助かります…!じゃあちょっとだけお願いしますね!何か分からないことがあれば呼んでください!」
瑠璃。その名前を忘れる筈もない。
この1年、どれ程僕が彼女について調べ、情報を集めたのか。彼女のことは、自分が一番よく知っていると言ってしまってもいい。
「失礼します、ホットコーヒーです」
『あ、ありがとうございます』
彼女の顔が不意に上がり、僕をその孤独な瞳に映す。やっと、やっとだ。彼女の中に僕は存在した。この瞬間をどれほど焦がれていたことか。
懸命に頭を抱えながら勉強をしている彼女のノートの近くにコーヒーを置いて帝丹高校ですか?と軽く声をかける。
『え?……そうですけど』
怪訝そうな顔をむける瑠璃。敏感に僕の言葉を捉え、反応する表情が愛おしい。だけどこの彼女は、まだ彼女のたった一部でしかない。僕が見たいのはもっともっと彼女の奥底の…。
「あ、いえ、その制服、この辺でよくみかけるので」
だけどまだ、それを知るには早すぎる。焦る必要はない。ゆっくり、ゆっくり。紙の上の彼女では無く、実際の彼女をもっと見ていたいから。
瑠璃は納得したように頷きながらも、不可解な瞳で僕を見つめていた。初めて見る顔に困惑しているのだろう。
もっと、僕を見て。僕を知って。
君は僕のことを知らなさすぎるから。
「僕が誰なのか、気にしていますね?」
もっと、もっと、もっと。
その瞳に僕を映して。僕の事だけを考えて。
『あ、いえ…。ただ、初めて見る顔だったので…』
人間の本能とは不思議なものだ。恐ろしいくらいこちらの気持ちと言うのは言葉では表現できない何かで伝わってしまう。
少々怯えた瞳も、今は僕のものなのだ。
「すみません、挨拶もしないで…。僕の名前は安室透。昨日からここでお世話になっています」
『あむろ、さん…』
彼女が僕の名前を呼んだ。歓喜に胸が震える。
促すように口元に笑みを浮かべるとはっとしたように彼女も口を開いた。
『私は七条瑠璃です。よくここには来るのでよかったらまた声かけてください』
彼女の瞳が僕の瞳を真っ直ぐ捉えた。相変わらず、なんて綺麗な瞳なのだろう。哀しみを押し殺した瞳は、酷く儚く、酷く透明で、酷く美しい。
それから少しだけ彼女に勉強を教え、早々にその場を切り上げる。今日はまだ、駄目だ。焦ってはいけない。彼女に近づいていくのは、今日はここまでが限界だ。
彼女の視線を心地よく背中に感じながら、誰にも見えないようにそっと笑みを浮かべる。
やっと。だけどまだ、此処はスタートライン。
すべての事象はこれからは始まる。まだ、何も進んじゃいない。
ふ、とひとつ深呼吸をしてから窓の外を見る。
雨。雨。もっと降ればいい。もっと世界を暗くして、冷たくしてしまえばいい。
そうして身も心もぼろぼろになって、ひとりぼっちで倒れている君は、僕が助けてあげるから。
そんな僕の心に呼応するように、窓の外の雨は強く、勢いを増した。
160120