ぜろ
□あまいおかし
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雨。雨。雨。
ずっと降り続く、世界を染め上げる雨。
「いらっしゃいませー!ただいま開店セール中です!」
笑顔を作ることに、疑問を思わなくなったのはいつからだっただろうか。
いつからか、そうしていた方が楽なんだと、生活はスムーズに回るんだと理解し、何故そうしなければいけないのか、考えることをやめてしまった。
君もそうやって、悲しい思いを押し殺して笑顔を浮かべるんだろうか。
脳裏に彼女の笑顔がよぎる。
「ケーキ、焼き菓子、チョコレート、新商品ぞくぞく入荷中です!この機会に是非どーぞ!」
新しくできた焼き菓子店のようだ。ショーウインドウに沢山のお菓子が並んでいる。
通り過ぎようと思ったが、そういえば彼女はクッキーが好きだったと思い直しショーウインドウを眺める。
「いらっしゃいませー!お兄さん、何かお探しですか?」
「えぇ、まぁ…。クッキーを」
「女性に渡されるものですか?」
「…はい」
「でしたらこちらの商品はいかがでしょう!これ、クッキーももちろん美味しいんですけど、入ってる小瓶のデザインも凝ってて中身を出したら小瓶は小瓶として使えるんです!」
透明な、リボンと何かの模様が繊細に彫ってあるガラスの小瓶。
彼女はこの小瓶を使ってくれるだろうか。
それでも形のなくなるものだけを渡すよりは、少しでも形として残ればいいと思い、それを買うことにする。
今日も瑠璃はうちの店にくるだろう。これを渡したら彼女はどんな表情をして、僕にどんな感情を抱くんだろう。
考えただけで落ち着かない気分になってくる。
店員さんからそれを受け取って、店に急ぐ。雨が酷い。道行く人々は、皆憂鬱な顔をしている。
空を見上げる。益々暗くなっていく空は、今にも崩れ落ちそうで、太陽の存在を忘れてしまう程に重く厚い。
仕事に入り、その場しのぎのそつない自分を演じながら彼女を待つ。時刻はもうすぐ夕方5時を迎えようとしている。もうそろそろだろう。深呼吸をして仕事を続ける。
からんころんとドアが小気味の良い音をたて、彼女だろうと悟る。彼女がドアを開ける音は、何か他の人のそれとは違うのだ。変わらない筈なのに、ドアの鐘の音までワントーン高く聞こえてしまう。
「いらっしゃいませ」
にっこりと笑って席に座るように促す。するとぎこちないながらも彼女から笑顔と会釈が返ってくる。
やっぱり君は、そういう笑顔を浮かべるんだね。
「お飲み物は何にしましょう?」
少し冷たい笑顔。作り笑顔では無い、だけど心の笑顔でも無い。
君も僕と一緒。笑顔を作ることに慣れて、何が嘘の笑顔なのか、どれが本当の笑顔なのか、どうして心から笑わなくてはいけないのか、忘れてしまった人間。
『えっと…、ホットコーヒーで』
この降り続く雨は、君の心の様だ。太陽の下で暗く涙を流す、君の心によく似ている。
注文を承り、彼女の席を離れようとした時、茶色い学生カバンからキラリと光る何かが目に留まった。
鍵、だ。
手を伸ばせばすぐにでも盗れてしまいそうなそれに、どくんと心臓が鳴った。
もしあの鍵を僕が盗ったら?彼女が行く宛を失くしてしまったら?
きっと彼女はもう一度この店に来るだろう。それでも無かったらすぐ上の蘭さんのところに転がり込む?
だけど都合の悪いことに蘭さんたちは今日家にはいない。行く宛のない彼女の前に僕が現れたら、彼女は僕を頼るしかなくなる――。
全身の血が逆流するような感覚を覚えた。作られた偶然とはいえ、これが上手くいけば彼女から僕に手を伸ばすことになる。
一番やっかいなのはきっかけを作ることだ。それがまさかこんな形で上手く行くなんて。
落ち着け、と自分に言い聞かせ、そっと先程買ったクッキーの小瓶を手に取る。ひやりと無機質な感覚が掌に広がる。
そう、今日の目的はあくまでこのクッキーを渡す事。鍵の件はおまけでしかない。成功すればいい、くらいの気持ちでいないと。
焦るな、焦るな。
そもそも僕は、ただ彼女をひとりぼっちにしたくないだけなんだから。
とんとん、彼女の肩を控えめに叩くと不意に上がる孤独な瞳。何でしょう?と疑問を浮かべる彼女に、そっと小瓶を差し出す。
「よかったら…、これ、どうぞ」
驚いたようにそれを見つめ、あの、と口を開く彼女の言葉を遮る。
「僕からのプレゼントです。勉強頑張ってらっしゃるので…」
はにかんだような、恥ずかしそうに視線を逸らす彼女にこちらまで子どものような気持ちになって、自然と笑顔がこぼれてしまう。
すると益々照れたように頭を下げ、ありがとうございますと小さく呟く。
今の笑顔はきっと、…作り笑顔では無かった。本当に心から恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに。今の彼女は本当の瑠璃だった。
「では、頑張ってくださいね、瑠璃さん」
ふっと頬が赤くなった瑠璃を横目にそっと鍵を抜き取る。動揺している彼女の目を盗んで鍵を奪うことは、造作もないことだった。
彼女の笑顔。今の笑顔は温かくて、嘘のない、純粋な笑顔だった。
あの春の日、零してた涙のような、きらりと輝いて欺瞞のない本音の顔。
それを見れるだけで十分な筈だった。それなのに、…こんなことをしてしまって良かったんだろうか。
思わず手が伸びて盗ってしまった鍵を見つめる。
…今なら別に、返すことはできる。返した方がいい。どうして盗ってしまったのか、これでは自らが彼女を苦しめているようなもの。
…少しだけ。今日だけ。この一回きりだけ。
もう盗ってしまったのだから…このまま流れに身を任せるしか、仕方ないから。
窓の外を見る。さっきよりも暗くなってしまった空。欲望が勝ってしまった僕を戒めるかのような、叩き付ける雨。
作られた偶然でもいいじゃないか。
耳元で誰かが呟いた気がした。作られた偶然でも、困っている彼女を助けるのは間違いじゃない。僕は彼女を助けてあげたい。それだけ。他には何もない。結果は後からついてくる。
からんころん、重苦しい音を立てる。ふとホールを見渡すと彼女の姿は無くなっていた。
もう後戻りはできない。
お前がその鍵を盗らなければ、そもそも彼女が苦しむことも無かったのに。
一瞬心に浮かんだそんな思いは、ゴロゴロと泣き出した不機嫌な雷の音にかき消された。
160212