ぜろ

□あくま
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「どうぞ」


『…お邪魔します』


少しだけ躊躇うように、謙虚に僕の部屋に足を踏み入れる彼女はいじらしい。
半ば強引に誘ったとはいえ、こう簡単に男についてきてはいけないと叱責してやりたくなるほど彼女は無防備だ。

警戒心はあるようだが自らを守る術など無いに等しいのに。

ぎこちない動きの瑠璃の後ろ姿を見て、思わず吹き出して笑ってしまう。


「そんなに緊張しなくても…。襲ったりしませんよ」


ああ、今はまだ、だけど。


僕のそんな一言一言に過剰に反応し、どもりながら返事をする仕草はわざとしているんじゃないかと思うほど僕を魅せる。


「取り敢えずお風呂に入りましょう。寒いでしょう?…一緒に入りますか?」


そんな少女の反応がおもしろくてついからかってしまえば予想通りの恥じらいを含んだ反応。動揺して足元がふらつく彼女をキャッチし、偶然を装って壁に押し付ける。

なんてなんて、小さな身体。このまま強く壁に圧し続ければ潰れてしまうんじゃないかと思うくらい華奢で非力な身体。

可愛い。誰にも潰させたくない。彼女を潰していいのは僕だけ―。
愛しいと思う気持ちが一瞬、赤黒く染まった瞬間、ぱちんと灯る電気。瞬く間に彼女の顔が赤く染まり、蛇に睨まれた蛙のように僕から視線を外せないでいる彼女に笑いかける。

もっともっと、僕を見て。目を逸らさないで。
綺麗な瞳はそのまま、抉ってしまいたくなるほどに美しい。
その綺麗な瞳を他の誰にも向けさせたくないと。その瞳に映すのは僕だけで十分なのだと。


『あ、ありがとうございます…。あの、も、もう、大丈夫ですから』


耐えれないという風に身を捩る彼女を解放してやる。まだ、今はこのままで良い。可愛らしい彼女を、外の世界で駆ける彼女を、まだ少し見つめていたい。

先にリビングに入ってタオルを渡してやる。風呂にはいれと促せば困ったようにおどおどとたじろぐ少女。またひとつふたつ、冗談を投げかければその度に顔を赤くする反応が心地いい。



シャワーの音がする。彼女が僕の生活空間に入ってきている。
そう考えただけで胸の奥の方がジンと熱くなるのを感じた。着替え用にスエットを用意してから、ソファーに座って背もたれにもたれ掛ってみる。


…雪。寒い風を切って。彼女が一心不乱に僕の方に走ってくる。
僕のポケットに突っ込んだ手は彼女を抱きしめたくてうずうずと落ち着きなく揺れている。彼女が走ってくる。
鼻の頭が赤く染まって、頬を上気させて、真っ直ぐにその瞳に僕を映して、彼女が僕の方へ向かってくる。

――そういうの、夢だな。


くだらない、馬鹿げた夢だと笑われても構わない。いつ実現するのか。そもそも実現なんてするのか。分からないけれど、そんなことを考えていたら益々彼女を愛しく感じる。

そんな自分を現実に無理矢理引き戻すように鳴った携帯電話。頭の熱が、心の熱が急激に冷めてゆく。心臓から流れる血は、凍てついてしまう程冷え、サラサラと規則的に流れている。


「もしもし?」


「あぁ、バーボン?今大丈夫?」


ちらりと風呂場の音に耳を傾ける。丁度今着替えているところだろうか。この会話を聞かせるのは拙い。後でかけ直そうか―。

頭の隅で誰かが呟く。純粋な少女。孤独な少女。僕を見ていたあの瞳。その瞳は穢れた世界を、穢れた物事を、どのように否定するんだろうか。

子どもの頃のような、ずくずくと身体の底から湧き上がる好奇心。思わず口元が笑ってしまうような高揚感。止めることのできない感情が、勝手に僕の口を動かしてベルモットに伝える。


「大丈夫です」


「例の件だけど、他の皆は手一杯だからやっぱり貴方に任せようと思うの。万が一の時は私が出るけれど、私の出番は作らないでね?」


「……えぇ。彼の始末は僕に任せてください」


扉を挟んだ廊下の中で、彼女が息を呑んだ感覚がここまで伝わってくるようだった。もう捕まえた。もう逃げられない。こんなの、ただの余興に過ぎない。どう行動しようが、ここから先は彼女の自由だ。


「裏切者は僕の手で始末します。……はい、はい。では火曜日までに片づけますね。片付いたらまた電話します」


含みたっぷりに、わざと危機感を持たせるような言い方をして電話を切る。彼女の震えるような鼓動。吐息。僕の話を聞いて、彼女が何をどう捉えるのか。忘れずに標的のことを書いたメモをさりげなく覗かしておく。


『お風呂借りました』


必死に普通を装うとしている彼女を捕まえて、たっぷりと尋問してやりたかった。もう君は僕と共犯者。始末の意味をどう捉えたかは知らないがもう話を聞いてしまった以上、無関係だとは言わせない。

自然と零れる笑みに瑠璃の瞳の奥が疑心を抱いていた。きっと彼女の中で色々な葛藤が行われていることだろう。

会話を交わして風呂場に向かう。今、漸く気を抜くことができて深呼吸でもしているところだろう。頭の良い彼女はあのメモに気が付くだろうか。そのメモを見て、彼女は何を考えるのだろうか。
そんなことを想像するだけでゾクゾクと身体中が迸る感覚がした。

風呂に入り、シャワーを浴びている間も高揚した気持ちは中々収まらなかった。身体に水が滴る感触でさえ心地よく心臓が鳴った。

そうやって、僕のことを考えて。僕のことでいっぱいになって。
他の誰のことも考えないで。苦しみでもいい。歓びでもいい。なんでもいいから彼女に刻み付けたい。

ひとりぼっちになんてさせてやるもんか。孤独な瞳に僕だけを映して、僕だけを心の拠り所にしてしまえ。

シャワーを浴びた、髪の毛が濡れている。口が緩んだ自分の顔は酷くだらしない表情だっただろうが、鏡は曇り、自分の顔を見ることができなかった。




160331

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