ぜろ

□しんしょく
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空が薄青い。


「…………」


ソファーで一晩を明かした身体は、少しだけ硬直している。だけど別に構わない、彼女のためなら僕の身体がどうなろうと惜しくはない。

今日は…晴れてるな。

身体を起こして窓際から街を見る。清々しく洗い流された街は、昨日の雨のことをすっかり忘れてしまったようだ。
晴れの日は重たくて暗い世界を消し去ってしまうくらいに明るい。だけどそんなもの、ただの錯覚に過ぎない。どれだけ明るく眩しく晴れていたって、暗くて重苦しい雨の日はどこかに存在するのだから。

ベッドルームを静かに覗き見ると、そこにはあどけない寝顔の少女が深い眠りに落ちていた。素顔の彼女はむにゃむにゃと寝言すら呟いているようにみえる。

可愛い…。

心臓から血とはまた別の、ゆっくりと滲み出てゆくあたたかいもの。思わず目を細めてしまいそうな穏やかな光景。堪らない愛しい姿に思わず手を伸ばす。

さらさらの髪。頬。首筋。

そこまでゆっくりとなぞったところで手を離す。今はまだ…此処から先は、いい。今はこの光景だけで自分でも驚くくらいの温かな気持ちが湧き出てくるから。

君がいるなら…晴れの日が続いたって、構わない。
圧し掛かるような雨の重さは確かに落ち着くけれど―。

寝顔を堪能したところでそっとベッドルームを立ち去り、リビングでコーヒーを淹れる。苦い味が心地よい刺激となって喉元を過ぎる。

満たされた、緩やかな朝。瑠璃がいるだけで、空間がこんなにも鮮やかに輝いて見える。
彼女と同じ空間を共有していることが愛おしい。

そうしてそのまま、陽が昇り彼女が目を覚ますまで時間に身を預けながらコーヒーを啜っていた。





その日と日曜日は、何も起こらない安心感と、言いようのない虚無感を背負いながら過ごした。
彼女のいなくなった部屋は、時間が経つにつれ少しずつ色褪せていくような錯覚がした。

少しだけ、瑠璃の香りが残るシーツに横たわりながら、ぼんやりと頭を働かす。

今日はポアロに来なかったな…。まぁきっとお礼をしたい気持ちはあるのだろうが明日のことが君を思い止まらせているんだろう。

明日のこと。

ぞくりと何かが身体の底からあがってきて思わず身震いをした。仕事の内容は大したことは無い。前準備は完璧だし公安との連携も最新の注意を払っている。

死んだことにはなってもらうが殺しはしない。段取りはできている。後はその場で上手くことを運ぶだけだ。

問題は瑠璃だ。本来なら火曜日に始末するつもりだったのだが思わぬ予定が入ってしまった。
あのメモには確か火曜日と記したはずだ。これでは…。

…だけど、それでいいのかも。あの天使のような寝顔を穢しては…きっと、いけない。昨日の彼女は本当に可愛かった。穢れを知らない純粋な表情だった。

まぁいいさ…、明日のことは明日にならなければ分からない。明日の天気が晴れでも雨でも、僕は行かなければならない。

僕はひとりの男であると同時に、スパイであり公安警察なのだから。

そんなことを考えていたら、いつの間にかすんなりと眠りに落ちていた。





朝。少し空が曇っている。素早く身支度を整え、身体を軽く動かしていつでも動けるように温めておく。

そろそろ時間だ。一度大きく息を吸って、部屋を後にする。
車を回し、目的地へ向かいながらも珍しく心臓が少しだけ暴れていた。

彼女は来ない。来るはずがない。来てくれなくていい。
彼女の寝顔を思い浮かべれば確かにそういった感情が思い浮かぶはずなのに、どうして、何故。こんなにも気持ちが逸るんだろう。

来ないで、と不安な気持ちがそうさせるのだろうか?…いや。それもある。だけど、それだけじゃ…。

目的のアパートが目に入った。それと同時に、アパートの階段を息せき切って駆け上がる少女の姿を見つける。

その姿を瞳が捉えた瞬間、またもやゾクゾクと抑えられない感情が腹の底から湧き上がってきて、ハンドルを握る手に力が入った。

いる。瑠璃が、いる。

歓びに、身体中が震えている。意図せずとも口角が釣りあがり、獲物を見つけた獣のように瞳がぎらぎらと輝いているのが自分でも分かる。


だめだ、もう、止められない。

迸る気持ちのまま、車を停め飛び出して標的の部屋、もとい彼女の元へと足早に向かう。だけど気配には決して気づかせない。気持ちが昂れば昂るほど、異常なまでに神経が張りつめて僕の動きを精錬させる。

気配を消したまま彼女の後ろに立った。彼女はまだ気が付かない。向かい合う形になった標的が僕の姿を見てみるみると青ざめていく。
瑠璃もその姿を見て自分の背後を確認しようとした。だけどもう、遅い。

一瞬、ほんの一瞬、彼女の綺麗な瞳に僕の姿が映った。僕の中に一瞬の躊躇いが生まれたが、興奮しきった身体はもう、言うことを聞かなかった。

楽しくて、おかしくて、笑い声が漏れる。ああ、君はなんて愛おしい。こんなところにくるなんて。真っ直ぐで孤独な瞳。もう逃がさない。君は僕のもの。

愛しい、愛しい。その気持ちはきっと、昨日想ったものと変わらない。同じもの。そう思った。思ったけれど、何故か空は少し曇って、モノクロの色彩に覆われていた。






160523

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