ぜろ

□ひとみ
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優しく、突き放すような雨の音がする。
夢を見ている途中で気が付いた、ああ、僕は夢を見ているんだ、と。



僕は雨に打たれていた。そして空を見上げていた。夢なのに、顔に滴り落ちる水の感触、着ている薄いシャツに染み入る冷たい水。その全てがまるで現実のように僕の身体を蝕んでいる。

だけどこれが夢だというのは最初から分かっていた。

頬に滴が落ちる感覚は随分久しぶりのようだ。それは泣いているようにも感じた。空は光を失ってしまったかのような灰色。泣いているのは僕では無くこの空の方だ、となんとなく考えていた。


身体が寒い。絶えず降り続く雨のせいだ。この雨を降らしているのは誰なんだろう?神様だろうかと考えて自嘲する。こんなものはただの自然現象だ。神だの誰かの意志だの、そんなものはくだらない妄想に過ぎないのだから。


雨は止まない。止む気配もない。僕は絶望に似た黒いものを胸に抱えている。頬を雨が滑り落ちる。風は泣き叫んでいる。僕はもう、前にも後ろにも進むことはできない。

だけど暗い暗闇は何故だか少し心地が良かった。進めないのは進まなくていいことと同義だった。どこにもいけないから。縛られているからずっとここに浸っていればいい。
けれどその微かな微睡は無機質な音によって揺り動かされた。どうしようもない現実が、一寸の狂いもなく歯車を回しているのだ。その歯車に組み込まれている僕は、望もうが望ままいがそれに合わせて動くしかない。


「………」


携帯のバイブ音で目が自然と開いた。絶え間なく響く無機質な音。瑠璃の携帯だろうか。
ふと視線を下ろすと僕の下では瑠璃が緩やかな寝息を立てて眠っていた。ずっと夢見ていた。欲しかったこの光景。なのにどうしてこんなにも。…こんなにも幸せを感じられないんだろう?形だけの幸せに納得できないんだろう。始めはどんな形であってもこの光景を手に入れたかった。別にそこに気持ちなんて必要なかった。
なのに実際手に入れてみれば、もうそれ以上を望んでしまっている。この現実に幸せを感じれないでいる。人はどこまでも強欲で不可解な生き物だ。

瑠璃の額に触れるだけのキスをしてから起こさないようにベッドを抜け出してとりあえず瑠璃の携帯の音の主を見に行く。別に他意はない。ただ、誰だろうと純粋な気持ちで携帯を覗いた、はずだった。

“工藤新一”

ディスプレイに映っていたその文字に心臓が凍り付いた。

どくん、どくんと心臓が鳴り響く。手が微かに震えている。指先が冷たくなる。
振動する携帯をどうすることもできないうちに、やがてバイブの音が止まった。それでも僕の身体は硬直してしまってそこから動くことができない。

工藤新一。工藤新一…。そういえば確か、瑠璃の幼馴染だっけ。最近姿をくらましたと聞いていたから大して気にも留めていなかったが…まさか連絡をとっているなんて。それもどうしてこのタイミングで?傍にいないのに?連絡をとったりするだろうか?
ずくずくと黒い感情が胸を覆いつくしていく。あの雨の日。一瞬遠い目を、誰かを思い浮かべているようにみえた瑠璃。まさか…、どうしようもない不安を押し殺して朝一のシャワーを浴びた。

暫くコーヒーを啜り、静かにしていても嫌な感情は消えなかった。雨の音が煩い。滴り落ちる水音がやけに頭を冷静にさせる。

心が酷く冷たく、研ぎ澄まされてゆく。まさかそんな訳無いよね?工藤新一。まさか。そんなことは。確かめないと…。
雨の音が絶えないまま、瑠璃を起こす。寝起きで頭が働かないくせに、僕を見た瞬間あふれ出す嫌悪感。だけどそんなのどうでもいい。君が僕を嫌いだろうが今はなんだっていい。だけど、君が他の男を見ているのだけは嫌だ。嫌だ…絶対に。


朝の支度を投げ、最後に携帯を渡す。携帯を見た瞬間に瑠璃の瞳が切なく揺れたのは、見逃しようのない事実だった。


「工藤新一ですか…。そういえば電話が入っていましたね」


何かを考えるのが嫌だった。できるのなら何も考えたくなかった。言ってしまえば現実の逃避だろう。だけどそれも、仕方がない。
彼に連絡をするな、なんて言ったところで無意味だろう。それは彼に連絡をしろと言っているようなものだ。それでもそう言わずにはいられない。どうしようもない不安と絶望が僕の心をかき乱す。

逃げるように部屋を出ていこうとする瑠璃を自然と引き留めていた。小さな身体をすっぽりと自分の身体に収めてみても、漠然とした不安が拭いきれない。


『……急いでるんですけど』


冷たい声。冷たい態度。押し殺さなければいけない感情が溢れだす。どうして。なんで。どうして僕を好きになってくれないの?どうして…傍に居る僕じゃなくて、どこにいるか分からない工藤新一に惹かれているの。どうして僕じゃ駄目なの。
だけどこれは瑠璃に求めてはいけない感情なのだ。それでもいいと…僕が瑠璃を好きだから、助けてあげたいから瑠璃を愛すると決めたのは僕自身だから。

だから、そこに見返りなんて求めちゃいけないんだ。


瑠璃を振り返らせ、その唇にキスをして送り出す。返事も無ければ勿論振り返ってもくれない。当たり前だ。…求めてはいけないことだ。

だけど…瑠璃が工藤新一のことを想っている、なんて。考えただけでも喉の奥が焼ききれそうだった。僕のことを好きにならない、それだけならいい、だけどどうして。どうして他の人を見ているんだ。工藤新一にあって、僕にないものは何?こんなに愛しているのに?傍に居ているのに?それなのに…僕じゃなくてその男のことを想うの?

変えようのない事実が襲い掛かる。心の中で、頭の奥で、もう一つの声が聞こえてくる。

目を逸らすな…。

目を逸らすな。それはつまり。…僕では駄目だという事。傍に居る僕よりも、遠くても揺らがない気持ちがあいつには向けられているのだ。


雨の音がする。優しく突き放すような雨の音。
そうして僕は気が付いている。これは現実なのだ、と。


扉の締まる音が虚しく響いてからも、僕は暫くそこから動けないでいた。






170616

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