ぜろ

□て
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雨の音が消えない。

瞼が持ち上がった先には、青い部屋が広がっていた。窓の外からは静かに雨の声が聞こえる。どうやらまだ降り続けているらしい。

まだ起きるのには少し早いがごろりと寝返りを打ってみても眠れそうにはなかった。ぎしっとベッドのスプリングが軋む音が部屋に響いて、また雨の音だけが部屋を包み込む。

…眠れるわけないか。

瑠璃はリビングで眠っているのだろうか。今なら顔を合わせずに部屋を出ていけるかもしれない。今は瑠璃ととにかく顔を合わせたくなかった。自分勝手なのも分かってはいるが。
一晩明けてもいまいちはっきりとしない煮えた自分の心。ともすれば、最早自分が瑠璃のことを好きなのかどうかすら分からなくなっていることに気付く。これは本当に好きという気持ちなのだろうか。ただの執着じゃないのか?瑠璃を追いかけることが目的になっていて、それは本当に好きということなのだろうか。
…分からない。今は考えたくない。

やたらと気ばかりが立って、眠れやしない。体を起こし、恐る恐るリビングへの扉を開ける。ソファーでぐっすりと眠ってくれていると助かるのだが。

リビングに足を一歩踏み入れる。ソファーよりも先に真っ先に床に倒れこんでいる瑠璃の姿が吸い込まれるように目に入った。その瞬間、一気に血の気が引いて、瑠璃の姿が―今まで見てきた数々の死体と重なって見えて―心臓がきゅっと縮んで喉元までせり上がって、震えそうになった足に「動け!」と叱咤して瑠璃の傍に駆け寄った。

顔に触れると、かなりの熱を含んでいた。頬が苦しそうに上気して、息も荒い。一旦は危篤な状態でなかったことに安堵する。
すぐに瑠璃を抱き上げてベッドに移し、辛いだろうと水枕を敷いてやる。汗が酷く、体が冷えそうだったので蒸しタオルで体を軽く拭いてやるのも忘れずに。
所見からしても恐らくはただの風邪だろうが、今が一番しんどい時だろう。一通り処置をした後はただただベッドサイドに座り、瑠璃の顔を見つめる。
苦しむ瑠璃の姿を見ているとできることなら変わってやりたいと思った。心臓はまだ鈍く痛む。こんなに大切な人が、こんなに苦しんでいるのに…こんなことしかできない自分の無力さが苦しい。
こんなに、大切な人…か。

どくん、どくん、と心臓が鳴る。雨の音が弱まってきた。瑠璃の顔を青白い朝日が照らしている。
触れても…いいのだろうか。
なぜ今更彼女に触れることをこんなにも躊躇ったのか分からない。だけど、どうしても触れたくて恐る恐る瑠璃の頭を撫でつける。その瞬間、自分でも意図しないままに、ぽろり、と涙が自分の頬を伝った。

どうして…僕…泣いて。
涙なんて久しく流してなかった。どんな同僚が殉職しても、胸が裂けるような痛みこそあったが涙を流すことはなかった。
なのに、僕は今…どうして…。


「………好きだ」


自然と口が開く。思えばそんなことを口にしたのは初めてかもしれない。感情がコントロールできない。だけど、今はそれでいい気がした。なんの体裁もなく、それがただの素直な自分の気持ちなのだ。

ああそうか…ただ、僕は瑠璃のことを。
独占とか支配とか従順とか、そんなことは本当はどうでもよくて…僕はただ…。
桜の木の下を…瑠璃とただ歩きたかっただけなんだな。



どのくらい瑠璃の前でぼおっとしていただろうか。気が付けば雨は止んでいた。部屋に朝日が差し込んでうっすらと明るくなる。
一旦水枕を変えてやった方がいいだろうか。だけど起こしてやるのも可哀想だと思い、とりあえずはと生理的な尿意を催して立ち上がってみる。暫く動かなかった身体はぎしぎしに固まっていたが大して苦でも無かった。こんなこと、普段の気の遠くなるような張り込みに比べたらどうってことはない。

厠へと行ってから部屋に戻ると丁度瑠璃が目を覚ましたところだった。僕が入ってきたことに気が付き身体を動かそうとするのだがどうやら上手く動かせないらしい。
熱を測ってみたが予想通りの高熱だった。とにかく何かを口に入れないと治るものも治らないし、薬も胃に負担がかかってしまう。そう思い林檎でも剥いてやろうと立ち上がるのだが、服の裾をぎゅっと引っ張られてることに気が付く。まるで小さな小さな子どものように。

風邪できっと心が弱っているんだろう。今は、何の猜疑心も無くそう思えた。そして、もうそれでもいいとすら思える。僕のことが好きだとか、好きじゃないとか…今はいい。そんな煩わしい考えは一旦捨ててしまえばいい。

林檎を数個食べさせ、薬を飲ませようとしたが座るのも苦しそうだ。しかし、薬を飲まないのは流石に治りが長引いて余計にしんどくなるだろう。瑠璃は嫌がるかもしれないが…仕方ない。一度自分の口に水と薬を含んで、瑠璃に口移しをする。瑠璃はされるがままに薬を飲み干す。口の端から零れた水が神秘的で、芸術的にすら見えた。


「…嫌でしたか?」


嫌がっていたら、申し訳ないな。そう思って問いかけたのだが優しい瑠璃は意外にも首を横に振った。
穢れのない瞳が寂しそうに僕を見ている。


「もう一度…キスしてもいいですか?」


僕も弱っているのだろうか。寂しそうな瑠璃を見てられなかったのかもしれない。頷いたのを確認して、ゆっくりと口づけをする。柔らかい、何度も無理に口づけてきた瑠璃の唇が今日は特別に温かく、優しく、酷く甘く感じた。

とろんと眠りに落ちかけている瑠璃の手を握り、頭を撫でる。とても弱くて小さな生き物。少しだけでも…今だけでも。外の痛みから、苦しみから守ってあげたい。純粋な気持ちが広がって、部屋を包み込む。優しい気持ちが溢れだす。


ずっと傍にいますよ。おやすみなさい。


弱々しい手が、僕の手をぎゅっと握った感覚が伝わって、
僕はその手を強く握り返した。



180208

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