ぜろ
□たいおん
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君はいつも、悲しそうで
君はいつも、寂しそうで
君はいつも、切なげに僕の名を呼ぶ。
憂いげな君の瞳はまるで
止むことのない雨のよう…
どっ、どっ、どっ。
目が覚めた瞬間、自分の心音が耳の奥で酷く響いていて不快感を覚えた。頭が重い。昨日、重要な決意をしたせいかもしれない。
今日は最後の日になるだろう。瑠璃の体調はどうだろう。昨日の様子からいくと恐らく僕がついていなくてももう大丈夫にはなっているだろうが。
汗ばんでいる身体が緊張を表しているようで眠気覚ましも兼ねてシャワーを浴びる。幾分気分がマシになったような気もする。あまり食欲が湧かず、朝食はコーヒーしか飲めなかったが朝の時間を過ごしているうちにじわじわと決意が固まってきた。
逃げ出したい。先延ばしにしたい。そんな身勝手な気持ちでもう瑠璃を苦しめる訳にはいかないから。
ベッドのスプリングが軋む音がした。瑠璃が起きたのだろうか。そっと部屋を見に行くと昨日とは打って変わって、すっきりした顔色でこちらに振り向いた。
「体調は?」
『おはようございます…。お陰様で随分良くなりました』
あ…。
朝日を受け、何日かぶりに見ることができた瑠璃の笑顔。つられて僕も微笑んでしまう。僕は、そう、ただ…瑠璃のこんな顔が見たかったんだ。
それは日常にありふれていて、誰にでも向けられるようなものに違いないだろう。なのに僕はそんな花を、僕だけのものにしたかった。誰の目にも触れさせたくなかった。
こんなことに今更気が付くなんて…だけどもう、遅い。
心臓が、きゅっと締まる痛みにも似た感覚。懺悔、寂寞、後悔、虚脱感…どの言葉も当てはまるようでどこか違う言いようのない真っ白な僕の空。
どこまでも続く白銀の雲が連なる大空は、次にどんな顔を見せるのだろう。自分のことなのに、これからのことが…心の天気予報が、全く見通しがつかない。
軽めの朝食を作り瑠璃の元へと運ぶ。口元にゆっくりとそれを差し出したが視線を外し、自分の手でそれを食べ始めた。
キラキラと輝いていた笑顔が、少し雲の中に隠れてしまって寂しいと感じた。それはただ純粋にその笑顔をもう少し見ていたかっただけで。
だから、ぎゅっと痛んだ胸の感覚は心の奥底にしまい込んだ。
それから今日のことを軽く説明して逃げるように部屋を出ていく。駄目だ、これ以上瑠璃の顔を見ていられない。頭を撫でた掌が温かいのも、もうこれで…。
素早く身支度を整え、ポアロに向かおうとした時に追いかけてくれ、ありがとうと、いってらっしゃいの言葉をかけてくれる瑠璃。どこまでも最後までも優しすぎる瑠璃が不意にたまらなく愛おしくなって逸る気持ちのままに瑠璃を抱きしめる。小さな身体。小さな温もり。だけど彼女はしっかり生きている。誰かに依存している僕とは大違いに。
『…安室さん?』
「帰ったら少し…話をしましょうか」
今ここであっさりと別れの言葉を言えないのはきっと僕の弱さだろう。引き伸ばしたい訳じゃない。だけど、その言葉は僕にはあまりにも重すぎる。
がちゃんと扉を閉め歩き出す。身体が酷く重い。汗がゆっくり滴り落ちて生ぬるい風がそれを舐める。大丈夫。未練はない。いやそもそも僕が未練という言葉を使うのすらおこがましい。瑠璃は今日を皮切りにして僕を忘れ、自由に自分の世界を生きていくのだ。
…僕のことを、忘れて。
溜息がやたらと熱を含んでいた。息が上がる。ポアロまでの道のりがやけに遠く感じる。なんて弱い…こんなに僕は脆い人間だったのか。
この行き道で何度溜息を吐いたのか分からない。忘れる…僕のことを。瑠璃は僕の嫌いな部分や憎むべきことすら記憶の中に残してくれないのだ。
これからポアロで会うことがあっても僕と彼女は何も知らない関係で、そして僕は。僕は……。
暑い。汗が止まらない。空が重い灰色をした雲に覆われている。今日は雨だったっけ?雲が厚い。また大雨が降りそうだ。空気が肌に圧し掛かる。湿気が多くて息が詰まる。
息が苦しい。
ぼやける頭とぼやける視界に浮かんでは消える瑠璃の姿。もう、もう…さよならだよ。二度と「瑠璃」と「安室透」が交わることはない。二度と、だ。だって彼女は僕を忘れてしまうから。
忘れないで。どこにもいかないで。僕を。
目の前が白くなる。頭の回転が遅い。僕はどうしてしまったのだろう。瑠璃…僕を。…瑠璃。
僕の記憶はそこで途切れていた。
うわ言のように瑠璃の名前だけが僕の頭の中をくるくると旋回していた。
180411