ぜろ
□こころ
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どこにもいかないで。
熱に浮かされた脳みそがぼんやりと取り留めのないことを考える。
瑠璃の背中は遠く小さく、手を伸ばしてみても届きそうにない。
僕の手の平には僕より少し温かい瑠璃の体温がまだ残っている。冷えた僕の手とは裏腹に温もりを伝えてくれる瑠璃の身体。だけど、手に残った感触は形のあるものではなく少しずつ、ゆっくりと、その感覚は確実に失われていく。思い出せなくなっていく。
どこにもいかないで欲しいのも、傍にいて欲しいのも、冷えた身体を温めて欲しいのも、本当は全部僕の方。
伸ばした手を引っ込める。この手があの遠い背中に仮に届いてしまったらどうなる?僕はまたすべてを滅茶苦茶にしてしまうのだろうか。瑠璃の涙なんてもう見たくないのに、結局僕が一番瑠璃を苦しめてしまうのだろうか。
泣き顔なんて見たくない。泣かないで。冷めた瞳をしないで。哀しい顔をしないで。僕は…。
「………瑠璃?」
ふっと現実に戻った時、お腹に人の温もりを感じた。これは…誰だっけ。僕はどうしてこうなっているんだっけ?
『安室さん!気がつきましたか!…良かった』
僕は何をしていた?確か今朝ポアロに行ったはず…なのにどうして僕はここにいる?
身体を起こそうとするが自分でも驚くべきほど力が入らなかった。諦めて天井を仰ぐ。ここまで怪我以外に酷い身体の状態になったのは何時ぶりだろう。身体は資本だと体調を大きく崩すことなんて久しくなかったのに。
自分の体調にすら気づかずに必死で煮詰まってこのザマだなんて情けないな…僕は。
『動いちゃ駄目…。…覚えてないんですか?さっき帰ってきて倒れたんですよ』
確か、確か…鉛でも飲んでしまったかのような重い足取りでポアロに行ったら梓さんとマスターに酷く驚いた顔をされて…すごい剣幕でまくしたてられて帰れと言われたような。
無論この家までどうやって帰ったのかは記憶がすっぽりと抜け落ちていて思い出せないのだが。
「では、瑠璃は…ずっと傍に?」
頭の整理が出来て漸く瑠璃の顔をきちんと見ることができた。よく見ると水枕まで用意されている。こんなに憎むべき相手のことを看病してくれたというのだろうか。
だけど、僕の目には否が応でも映りこんできた。瑠璃の頬がうっすらと、でも確かに濡れていることが。
「また…泣いてたんですね…」
瑠璃の頬を撫でる。冷たくて少しだけ濡れている。瑠璃の大きな瞳から涙が零れ落ちる。僕の熱い手を涙が冷やしていく。
「やっぱり…僕は君を泣かせてばかりだ…」
意識が少しずつ暗闇に溶ける。もう泣かせないと…夢の中でそんなことを思っていた気がするのに。やっぱり僕は。
『…寝て、ください…。今は…』
瑠璃の手が冷たく感じるほど熱い熱い僕の手。僕を温め、冷ましてくれる小さな優しい手。今でもそんな手が、瑠璃が大切で愛おしい。だから。
「…逃げなさい」
身体中が重くて動かない。僕と世界の境界線が無くなっていく。いかないで。ずっと傍にいて。
「今の…うちに…逃げて…」
僕がそんな言葉を吐き出してしまう前に。
次に目が覚めると、身体は幾分動くようになっていた。足元に突っ伏すように眠っている瑠璃の姿を見て一瞬狼狽したがそれはむしろきちんと計画をこなさなければいけない僕への罰なのだろうと感じた。
瑠璃があそこで逃げてくれるような女の子だったらどれだけ楽だっただろうか。
だけど瑠璃はあまりにも優しくて幼くて、脆くて、強すぎる。その強さに僕はもう甘える訳にはいかないのだ。
髪。…柔らかいな。
小動物のような瑠璃の頭を撫でる。もうすぐ、もうすぐ…だから今だけは。
『あ……』
瑠璃が身体を起こす。心配そうにこちらを見つめる。
『起きて、大丈夫ですか?』
「ええ、先程よりは。……どうして」
『…こんな安室さんを置いて、出ていけなかっただけです』
僕の手を振りほどき、寝室から出ていく瑠璃の後姿は余りにも遠く感じた。だけどそれでいい。僕の手なんて届かない方がいい。届いちゃいけない。
暗い部屋でひとつ深呼吸をする。大丈夫。この薬を飲まして暗示をかけるだけ。あとのことはあの二人がなんとかしてくれるだろう。というよりあの二人になんとかしてもらうしかない。
…瑠璃には、僕みたいな人間よりももっと瑠璃のことを大切に想ってくれる人たちが周りにいた。それでいい。これからは普通のどこにでもいるような女子高生として生きていってくれればそれで。
その人生に二度と僕が関わることがないとしても。
扉が開く。別れの瞬間が近づいてくる。
「瑠璃」
名前を呼ぶのももう最後になるかもしれない。
「今日、帰ったら話をしましょうと言いましたね」
瑠璃の瞳が揺れる。この先のことをなんとなく予知しているのだろうか。
「僕は今日、君を家に帰す話を…」
『やめて!』
鋭く響く瑠璃の声。君は優しい。
『やめて…今は…そんな話しないで…っ。お願い…っ』
違う。違うよ瑠璃、それは…。
君は誰よりも優しいから僕ですら傷つけたくないと思ってくれるんだろう。だけどそんなのはまやかしで、君だって隠しているだけで本当は。
瑠璃の泣き顔が見ていられない。泣かないで。泣かないで。やっぱり駄目だ。僕の傍になんていちゃ。僕のことを覚えてちゃ。
雨が煩い。窓に叩き付ける声だけが部屋を包む。大丈夫。直ぐになにも分からなくなる。こんな苦しいことはきれいさっぱり忘れられる。心に雷が打つ。胸が鈍く痛む。
部屋には瑠璃の泣き声と空の泣き声が呼応するように響き渡っているのが、僕には酷く辛く感じた。
180417