山嵐

□ひとつ
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―――――ここに来ればいい



桜が舞う。蒼空を背に強い風に舞う。



―――――俺はいつだってここに



掻き消される。手を伸ばす。包まれていく。



―――――何があっても、どこにいても



桃色の花弁。見えなくなる。白い光に滲んでいく。



―――――いつだって どうあったって



泣き叫ぶ。届かない。消えてゆく。



―――――必ずここに、帰ってくるから




うそつき。











ちゅん。ちゅん、と小鳥のさえずりが聞こえた。穏やかで静かな朝。朝日は弱い。まだそこまで陽が高く昇っていないんだろう。


『…んぅ……っ』


身体を起こし、座ったままひとつ伸びをする。ふぅと大きく吐いた息は溜息なのか深呼吸なのか。気分はあまりにも重い。


嫌な夢、見ちゃったなァ…。


ベッドから足を下ろして立ち上がり、カーテンを開ける。青い空。春の空。4月の空。窓を開けて敢えて習慣づけている煙草に火を点ける。

フゥー、と吐き出した白い煙にはまだ慣れない。もともと煙草なんて好きじゃないのに。だけど吸わなきゃ忘れてしまいそうになるから。煙草を吸っているときだけは、なんだか落ち着いた寂しさに包まれて、気持ちが落ち着いていくような気がするから。


朝だ。青い空。昔から変わらないもの。
幼き頃も、幸せだった頃も、何もかも変わってしまった今も、時は同じように流れるし、空は一貫して青白い。
変わらない。痛くても、寂しくても。今日も大丈夫。今までだって大丈夫だったから。何も変わらない、今日という一日が始まるだけ。


煙草の灰を落とす。今日も生きなくちゃ。今日は金曜日だから…燃えるゴミの日か。朝出るとき忘れないようにしなきゃ。仕事はあれとこれを午前中までに片づけて…午後からはあれを片付けてしまおう。夕飯は…昨日買い物に行ったからそれで何か適当に…。

日常の雑念。考えなくてもいいこと。考えなくちゃいけないこと。朝からそういうことを適当に考えて頭を埋めてしまわないと、気が動転してどこにも動けなくなる。

ほらだって、もう。


『あ………』


気が付けば口から離していた煙草の火がじゅ、と音をたてた。ゆらゆらと揺れる煙。白い空気が仄かに香る。

やっぱり、また今朝も泣いてしまった。











「凛さーん!おはようございます!」


『おはよう!今日は午前中までにこれを仕上げて、午後は私がこれをやるから…』


世界はごくごく通常営業だ。情にも無情にも時は変わらず進んで、戻りもせず急ぎもしない。私の心が変わってしまって時の流れが酷く淀んでゆっくりになったように感じても、彼らは何も変わらず自転を刻み続ける。

何も変わらない。そう、何も。
私が急に死んでも世界は知らない顔をして回り続けるんだろう。


「凛さんって、本当仕事もできて美人で性格も嫌味じゃないし…本っ当憧れの先輩です…!」


『こーら、そんなこと言ったってデザートは奢らないわよ』


昼休み。社員食堂。なんとか予定通りに午前の業務を終えた私たちは定食をかき込んでいた。
特別大きな会社ではないが、安定した中小企業。その割に食堂は充実していて、私たちはここを気に入っていた。


「でも凛さん、最近彼氏さんと別れたんですよね。こーんな良い人とどうして別れちゃうかなぁーっ」


ぴくりと反応してしまった。だけどそれ以上の動揺は見られなかった。


「ね、先輩。どうして別れたんですか?あ、嫌なら全然、深くは聞かないですけど」


『ほーんとう、どうしてだろうね?まぁ…私のこと、好きじゃなかったんじゃない?元々そういう愛情表現あんまりしない人だったし…』


「でも…付き合ってたのに。好きじゃないなんて。…どうして付き合ったんですか?」


『…本当、どうしてだろうね?』


「え?」


後輩が目をぱちくりさせる。そりゃあそうだろう。


「で、でも先輩、よくデートとか行ってましたよね?」


『うん。優しい人だったと思う。ちょっと不器用だったけど…。って、今日はここまでね。もう戻らないと午後に遅れるよ』


「本当だ。あ、先輩!今日いつものメンバーで呑みに行こうって言ってるんですけど…来られますか?」


『うーん…今日はちょっとパスしとく。次は行くね』


「分かりました!じゃ、午後からも頑張りましょう」


結局定時より少し過ぎた業務を終え、後輩たちを見送って帰路につく。
陽はもう半分以上沈みかけていた。最寄りの駅から少しだけ遠回りをして、桜並木の道を歩く。

ピンク色の花弁が微かに陽の光を浴びてオレンジ色に染まっていた。なんて綺麗。此処に引っ越してきたときから、この道は気に入っていた。
そして、あの日。

桜並木の一本道をひとつ横に逸れる。並木の細さとは比べ物にならない程、力強く立派な幹の桜木が聳え立っている。

私はこの木が好き。一本だけ離れて、妙な存在感と神聖性をもった木。満開の桜の花を携えて、堂々と変わらず咲き誇る。

木に触る。ざらざらとした木目。心の中で言葉を紡ぐ。
夢に出てきたの。この木も。あの人も。
初めてあの人に会った日のこと。私はこの木に惹かれて、吸い寄せられるようにこの場所に来た。そうしてこの木に見とれていた。

まだ仕事に慣れなくて、失敗ばかりして気が滅入っていたけれどこの木に触れた瞬間、何か温かいものが心の中に溢れるのを感じた。それと同時に何故か涙が溢れだした。

もう五年も前の話だ。そうして今、あの時と同じようにこの木に触っている。

5年。長いような短いような期間。本当に色々あった。あの日だ。何故か涙が止まらなくて泣いていた時、す、とこの木の後ろからあの人が出てきたのは。

あの人は何も言わなかった。煙草を咥えているのをぼんやりと見ていた。誰かが出てきて、涙を止めなきゃ、って思っていたのに一瞬、そのことも忘れてあの人に惹き込まれていた。

だけどもう、あの人はいない。あの時と同じように木の陰から出てくることはない。
あの人はもう、私の前から立ち去ってしまったから。

…もう、私のことなんて忘れてるのかな?

桜の木も、何年経っても変わらない。あの人はこない。同じ場所に立っても、時は同じじゃない。
涙が零れた。ああ、もう。今日は二回目だ。なんて弱い、脆い自分。男ひとり、忘れることもできやしない――。

だけど草を踏み鳴らす足音が聞こえた。あの時と同じように、自然と顔が上がった。誰かが私の前に立っていた。

桜の木の後ろから、そっと顔を出す。金髪のサラサラの髪が陽の光を浴びて薄く輝いていた。


「…大丈夫、ですか」


碧眼の男の人がいた。そしてそう呟いた。
私はあの日と同じようにその瞳に魅せられ、そして動けないでいた。




160925

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