山嵐

□ふたつ
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桜が風に舞って、私の魂は一瞬、あの日に還っていった。だけどそれは軽い眩暈と共に現実を連れてきた。

その男の人は小さな声ですみません、と言った。はっと我に返った私は急いで目元を拭う。


『…大丈夫、です。ごめんなさい』


ちくり、と木目に触っていた右手に痛みが走る。小さな吐息と共にばっと右手を抑えると、碧眼の男の人は優しげな手つきで私の右手をとった。


「診せてください」


『え、でも』


「いいから」


流れるような手さばきで右手の薬指の付け根辺りに刺さった棘を抜いてくれる。それから何か、小瓶に入った液体を軽く吹きかけるとくるくると絆創膏を巻き付けた。
その作業があまりにも手際よく、迅速だったため私はなすすべなく見守るしかなかった。


「一応消毒はしておきましたから、化膿はしないと思いますが。動かしずらいかもしれませんが、今日はその絆創膏、剥がさないでください」


『は、はぁ…』


そこで漸く指を見ていた瞳が私の方を見る。はたりと目が合うと、その人はタレ目の瞳をぱちくりとさせて一瞬、動きを滞らさせた。


「す、すみません…その、放っておけなくて、こういうの」


『い、いえ、こちらこそ、ごめんなさい。手当なんてしてもらって』


どちらからともなく手を離す。ほんの瞬きに流れる気まずいような沈黙。その空気をいなすように、男の人は桜の木に手をやった。


「よく桜は見に来るんですか」


『え?あ、あぁ…まぁ』


「ここはとてもいい。並木道も良く整備されている。だけどこの木は何か違うと思うんです。この一本だけ、なにか他の木とは違う」


どき、と心臓が静かに跳ねる音がした。呼吸が深くなる。耳当たりの良い声が音楽のように耳に流れ込んでくる。


「僕はこの木に惹かれてここにきたんです。おかしいですかね。そしたら君が…」


『お、かしくないです…!』


声が上ずってしまった。指が震えてしまいそうで、大きく深呼吸をする。


『…私も、似たようなものですから。この木には何というか…言葉では表せないんですけど。魅力があります、よね』


ちらりとその人の方を見る。言ってしまったものの変な人だと思われていないだろうか。だけどその男の人はにっこりと笑って言った。


「似ていますね。君と僕は」


―――似ているな。お前は、俺と。


その人の声と少し重なって、脳裏を鋭く過った声。ほんの一瞬、意識が飛びそうになる。


「僕は安室透、といいます。君とはまたここで会えるかもしれませんね」


その人――安室さんはそれだけを言い残してその場を立ち去ろうとした。思うよりも先に言葉が口を飛び出す。追いかけるように手が伸びる。

行ってしまわないで。あの人のように。


『あの!!』


夢では届かなかった手が、届いてしまった。服の裾を軽く掴んだ指にほんの僅かな痛みが走った。

安室さん、は振り向くと綺麗な碧眼に私を映した。なんだか吸い込まれてしまいそうで伸ばした手を引っ込める。


『わ、私は…坂神凛といいます。あの、指。手当してくださってありがとうございます。あの…』


またここにきて。会いに来て。どこにもいかないで。
つい口をついて出そうになった言葉を飲み込む。違う。この人じゃない。この人は、あの人じゃない。この言葉を言いたいのは、本当に本当は―――。


真っ白になった頭に新しい色を塗りこんでくるみたいに、安室さんは私の右手をとった。そして薬指を軽くなぞる。


「お大事に、凛さん」


手が離れて、安室さんは私に背を向け歩き始めた。もう引き留めることはできなかった。私はただ立ちすくむことしかできなかった。

分からない。甘い風が吹く。四月の夕方に吹く風はまだ少し肌寒い。
裾を掴んでいたまま、中途半端に開かれた右手の指の間に冷たい風が流れ込む。

安室さんの手。とても、温かかった。

そのまま木目に触る。大木は微かに温かいものの、無機質な冷たさを孕んでいる。

冷たい。温かい。赤い色。青い色。
私は。私は…。

ぶるりと身震いをして座り込む。両手で自らの身体を抱く。風の音が頭の中を支配する。

この感情は何?私は、一体どうしたいの?どうなりたいの?

頭の中ではただ、安室さんの私の名を呼ぶ声がぐるぐると回っていた。





161002

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