山嵐

□みっつ
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次の日の朝、起きて真っ先に頭に浮かんだのは昨日の事だった。

桜。本当に夢みたいに、あの日みたいに、違う人が出てきた。

安室透さん。

ふと視線を落とすと目に入る右手の薬指。夢じゃない。確かに私はあそこでまた出会ってしまったんだ。


『……ふぅ』


まだ何も始まってない。連絡先だって交換してる訳じゃ無い。だけどなんとなく、あの場所に行けばまた会える気がしている。

桜の木の下に行くべきか、行かない方がいいのか、複雑な気持ちが揺れる。別に会いたくない訳では無いのだ。あの一瞬会っただけだけれど、別に悪い人ではないのは分かるし、手当てのお礼だって本当はしたい。
確かにそう思っているのは事実の筈なのに、なにか分からない、見えない気持ちが私の心を抑え込む。行かない方がいい。会わない方がいい。根拠のない警告のようなものが頭の中を回る。

…でも。
…お礼をしないのはなんだか悪いし。

最後には結局その考えに至って、ベッドから重い身体を追い出す。軽く身支度を整えて部屋を出ていく。今日は予定はなにもないし、とりあえず…会えるかは別としてあの場所に行って、少し遠くの方まで買い物に出かけるのも悪くない。

駅前のケーキ屋さんでクッキーの小堤を買って、桜並木道へと歩く。未だ昇りきっていない日差しが心地よい。ひらひらと舞う桜に大きく深呼吸をする。

甘い匂い。芽吹く木々が青い。
強い光に照らされ始めた緑は初々しく輝いている。

桃色。水色。黄緑色。
ひとつひとつ、街の色を確認していくように足を進める。

いつものところで道を逸れて、大木の元へと向かう。木の元に誰かが立っている、と思った。一瞬安室さんかな、と思ったけれどどうやら違うようだ。
その人はこちらを一瞥したようにも感じた。そしてそのままさっさとどこかに行ってしまった。

誰だろう?私や安室さんのほかにもこの木に惹かれる人が居たんだろうか。それともただなんとなく、木陰で休憩していただけだろうか。
どちらにせよ安室さんじゃないのなら、今はどうだっていい。今はここにいないみたいだし…。


昨日のように木の下に立って、ぼんやりと太い幹に触る。朝日から陽の光を受け続けた幹はほんのりと温かい。
…夢、だったんだろうか。昨日の事は。
ううん、夢じゃない。たぶん、いや、絶対。
だってほら、右手の薬指には昨日の跡がまだ。

…本当に?都合の良い妄想なんじゃないかって。
運命でも感じてる?同じように木を見て、手当てしてくれた安室さんに?

…運命?……そんな馬鹿みたいなこと。


そっと自分の右手に、温かいもう一つの手が覆いかぶさった。どきんと跳ねる心臓。反射的に振り返る。


「また会いましたね。今日も桜を見に来たんですか」


『…安室さん』


思わず名前を呼んでしまうと、覚えててくれたんですか、と安室さんはその綺麗な瞳を細めて見せた。碧空のように透き通った瞳が桜と良く似合う。


『…いえ、今日は。安室さんにお礼がしたくて。ここに来たら会えるかな、と』


そう言って小堤を差し出す。安室さんは最初は遠慮をしていたが、しつこく差し出すと漸く受け取ってくれた。


「そんな深い意味は無かったのに」


『ダメです。こうしないと私の気が済まないので』


ふっと仕方なく安室さんが笑う。不意に安室さんが桜の木に手をやった。その間に立っている私はまるで追い詰められている子どもの様だと思った。


『…安室さんも、桜を見に来たんですか?』


風が二人の間を結う。葉が擦れる音。揺れる枝。掠る匂い。
木を見ていた安室さんがゆっくりと視線を下ろす。タレ目がちな瞳に私が映っている。


「凛さんに会いたかった。そう言ったらどうしますか」


ほんの少し、低い声。追い詰められた私は深呼吸をする。違う。きっと違う。だって昨日会っただけだもの―。


一拍の間をおいてから、ゆっくり口を開く。震えてしまわないように呼吸をする。


『とっても嬉しいです。安室さん』


笑顔を作るのは得意になったと思う。というより下手な笑顔では見破られてしまうから、上手に笑顔を作るしかなくなったのだ。
見破られたら呆れられるから。弱い女だと思われたくないから。
傷つきたくないから上手に笑顔を作れるようになってしまった。

安室さんも微笑んだ。さっきまでの少し真剣を装った雰囲気は風と共に吹き飛んでしまったようだ。軽い冗談。大人の遊び。偽の空間にお互いが気づいていることがおもしろくて、くすくすと笑い合う。


「凛さんはこの後どこかへ?」


『買い物に行こうかなと。○○駅の近く、最近大きなショッピングモールができたみたいですから』


「ああ、そのようですね。あの近くに良いお店を知っているんです。良かったら今度一緒に行きましょう。では、僕はここでおいとまします。もう少し居たかったんですがね。また」


そう言うと、私が何かを言う暇も無く彼はどこかに行ってしまった。
ほとなくして私も歩き出す。電車に乗って、ショッピングモールへと足を進める。街を歩いてウインドウショッピングを楽しみながら、さっきまでのことを考える。


良かったら今度一緒に行きましょう、だって。本当に言ってたんだろうか。ただの社交辞令かな。だけど…。
また、って言ってた。それはまたあの場所で会いましょうって…会いに行ってもいいってことだろうか。だけど彼は充分に大人だ。どこまでが本当なのか分からないくらいに。
だからもう少し居たかったとか、そういうのはきっと深い意味がないんだから。だからきっと安易に信じちゃいけない人なんだ…。


ショーウインドウに映る自分は、それでも昨日までよりも明るい顔をしていた。どの瞬間をとってもあの人のことしか考えていなかった私。だけど今日、いや昨日の夜からどうだろう。気が付くと安室さんのことを考えているような。

ふとすれ違った人から煙の臭いが香って気が付いた。


私今日、煙草吸ってない。




161009

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