山嵐

□いつつ
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夕陽が赤い。


景色が目まぐるしい速さで前から後ろへと流れてゆく。
車内には会話らしい会話は聞こえない。聞こえるのはかたん、かたんと車の前後輪が小さな道路の段差を越えてゆく音だけだ。

どこか落ち着いていて、どこか不安でもある空間。
傍に居るはずなのに、彼はいつもどこか遠い、遠い場所に居るような感覚が纏わりついていた。

―――それは彼が近くにいるから感じられたものだったのだと、どうして気づけなかったのか――。




目が覚めると、酷く頭の底が痛んだ。
身体中が鉛になってしまったかのように重く、動かすことができない。

泣いて泣いて、昔のことを思い出して迎えた朝は一言で表すと最低だった。
心も体も、何もかもが重く気怠くて、奮い立たせることができない。


『……………』


美味しくない煙草を吸う気にもなれなかった。
目を閉じると夢に出てきた赤い夕陽が瞼の裏に映る。

…また夢に出てきた。これは罰なのかな。
窓から入ってくる甘い風が、安室さんのことを思い出させる。

少しでも。ほんの少しでも安室さんのことを「イイ」って思ってしまったから…。だからこうして思い出が夢に出てきて、私をネチネチと痛めつけてくる。

安室さんのことを考えると、何かそう、罪悪感のようなものが私の胸を締め付ける。

今ここでもし安室さんを愛してしまったら。安室さんに逃げてしまったら。
それはなんだか…死んでしまったあの人のことを裏切るような気がしてしまう。

…私は。彼のことが好きで。彼のことを愛しているつもりだった。
彼のために仕事をして、彼のために私の人生を費やしていた。つもりだった。

……だけど、実際は…………。


赤い夕陽。点滅する信号。
冷たく吐き出された言葉に、私は気づいてしまった。
できれば分からないままで良かった。知らない方が良かった。
あなたのために生きていると思っていてよかった。

だけど、気が付いてしまった。


私が彼を愛していたのは、所詮自分のためだったのだと。
見返りが欲しいがために、彼からの愛が欲しいがために彼を愛していたのだと。

それは彼のため、だなんてとても言えないような自己愛だった。
結局は見返りがない愛なんて耐えられなくて、それが欲しいがために私は必死で彼を愛しているふりをしていたんだ。

それに気が付いてしまった私は、なんだかとても怖くなった。
今まで信じていたものに、自分に、足元を掬われたような気がした。
それから暫く訳が分からなくなって、彼を遠ざけているうちにあの日はやってきた。

もっと私がちゃんと彼を愛していたら?
見返りなんかじゃなくて、傍に居るだけで幸せだと思えていたら?

…そうすれば、あの日はこなかったのだろうか?

頭が重い。身体中に重力が纏わりつく。


…だけど。きっとだめ。
傍に居れば居るほど、絶対に見返りが欲しくなる。愛した分だけ愛されたいと思ってしまう。
傍に居られるだけじゃ足りないって。もっともっと、って。

結局私は甘くて自分が可愛いから、ひとつ欲望が叶えばまたさらにその上を求めてしまうんだ。


だからこそ余計に…安室さんの元へ行くことはできない。
きっと私はまた同じことを繰り返して、自分の愛を押し付けてしまう。周りが見えなくなって、愛されたいがために人を愛してしまう。


ごろりと寝返りをうった。ベッドのスプリングが軋む音が空しく部屋に響く。
視界いっぱいに映り込む白い壁を見るとはなしに見つめる。私は何がしたい?どうありたいんだろう?慰めてくれた、彼の低い声を思い出す。

訳が分からなくなったら、今自分がどうであったら幸せなのかを考えるんだ。
そのビジョンが浮かんだら、それと現実の何が違うのかを考える。そしてそれに向かって生きていくといい。

何年も何年も生きてきたかのような人だった。
年上ではあったがそこまでの差は無かったはずなのに、彼はずっとずっと遠い未来まで見据えているような気がした。

普段口数が少ないことも手伝って、彼が私に何かアドバイスをくれたときは、酷くその言葉に重みを感じた。
自分の大切な深いところまで届く言葉と声。
だからその声が「私と似ている」だなんて言ってくれた時は本当に嬉しかった……。


「自分」を思い浮かべてみる。
私が今したいこと。こうありたいと願うもの。


…桜の木。手を繋ぐ、私。
隣にいるのは。…隣にいるのは?

思い浮かべる私の隣に立つ人が見えそうだ、と思った瞬間、けたたましく携帯が鳴った。
突然の出来事に息を大きく飲みながらディスプレイを覗き込むと後輩からの電話が鳴っていることに気づく。
驚きで少し震えた手で通話ボタンを押すと、「先輩!!!!」と泣きじゃくったような声が聞こえた。


『も、もしもし?どうしたの?』


「う…っうぇ…っ!先輩ぃ…っ!聞いてく、ださ…っ!金よ…っび、呑みに行ったじゃないですか…っ!!あれ、△△部署の…っ!!ひ、…ったちも一緒に行ったんですけど…っ!」


どうやら随分泣いているらしかった。言葉が途切れ途切れでうまく聞き取れない。


「そ、この…っ!人とイイ感じになって…。そ、の。…こと、をやっちゃったんです…っ、そん時は彼も…好きだって言ってくれて。なのに…なのに…っ!!」


嗚咽が大きくなった。もうここまでくれば事の顛末は大体わかる。要するに後輩は遊ばれてしまったという訳だ。


『…今は?お家にいるの?』


「は、い…っ!今朝、連絡が入ってて…、それで」


『今からあなたの家に行くわ。ちゃんと話聞くから』


「ふぇ…っ!いいんですか…っ!」


『当たり前じゃない。…じゃあ、少し待ってて』


きっとこのまま電話越しに話していても仕方ないだろう。こういうのは直に話して励ますなりなんなりする方が賢明だ。

不思議なもので、なにかしなければならないと分かると身体は動くものだった。
あんなにドロドロに溶けていた気持ちも、今は少しマシになっている。

それでもまだ怠い身体をなんとか起こして髪を結う。
早く行ってあげないと、ちょっと心配ね。
軽く身支度を整え部屋から出ようとすると煙草が目に入った。


…吸いたくない。


せっかく気持ちが今は別の方に行っているのに、吸ってまたどろどろになりたくない。
ふうと溜息をつく。つくづく自分は我儘で情けない人間だ。

罪悪感から逃げるかのように急いで部屋を出た。
かちゃんと扉が閉まる音が、空しく部屋の外まで響いた気がした。




161103

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