山嵐

□ななつ
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春の嵐が吹き荒れる。夜の帳に桃の花弁が一層生えている。


『……安室さん』


私の声が彼の名を呼ぶと、彼は一瞬緊張したかのように動きを止めた。

彼は何も言わなかった。ただ、無言で私がそばに駆け寄るのを見ていた。


『また…会いましたね』


金髪の綺麗な髪が、月光を浴びて薄く輝いている。
安室さんの瞳は少しだけ寂しそうだった。僅かながらに目を伏せて、浅黒の指を私の頭に乗せる。そして数回私の髪を撫でた後、ぽそりと小さな声で呟いた。


「…もう、会わない方がいい、と思った」


春の甘い香が二人の間を満たしていく。少しだけ温かい月光。起き始めた虫の声。空に吸い込まれていく風の音。


「僕は…可笑しなことを言うようだけど、“普通”じゃない。僕がどれだけ君を信用していても、君に言えないことが沢山ある。そしてそれは君を傷つけるだろうし、なにより君を危険な目に合わせてしまうかもしれない」


安室さんの声は、耳障りの良い音楽のように私の中にすっと入り込んでくる。思わず目を閉じて、その音に身を任す。


「だから、もう会わない方が良いと思ったんだ。…もうこの場所には来ちゃいけないって」


…ああ。優しいんだな。この人は。
安室さんから感じる秘密の匂いには、初めて会った時から何となく気が付いていた。そういう人たちのもつ独特の緊張感とでも言おうか。あの人ももっていた。漂わせていた、その空気。


「なのに…そう思おうとすればするほど、どんどん君に会いたくなった。君と出会ったこの場所が忘れられなくなった。だから、最後にもう一度。この場所に来たんだ。…それなのに」


それなのに、私たちは出会ってしまったんだ。

堪らなくなって、安室さんの手をとり、優しく包み込む。するとはっとしたように安室さんの目が見開かれ、そのままその広い胸に抱き込まれた。

安室さんからは、煙草の匂いとは縁遠い、良い匂いがした。


『安室さ…、私』


「何も言わないで。…少しだけ」


私がその時何を安室さんに言おうとしたのかは分からない。だけど何となく紡ぎだされようとした言葉は、やんわりと優しい声で制された。


抱きしめられながら、頭の隅っこにある冷静な箱の中で考える。
この人は優しい。優しすぎる。…あの人とは大違い。
あの人は何も私に言ってくれなかった。だから私は常にあの人の無言の態度から無理矢理あの人の考えを読み取らなくちゃいけなかった。

だけど、この人は違う…。この人は私の欲しい言葉を、欲しいタイミングでちゃんと私に伝えてくれる。言葉でも、態度でも。


「…逃げるのなら、今だ。今なら、僕は君を追いかけない」


ずるいのね。あなたも。
選択の権限は、与えられているようで、無いようなもの。
あくまで決めるのは私自身で、だけどもう、私には逆らう術がない。

…だって、楽だ。気持ちいい。
今までずっと一人で戦ってきた。あの人といる時も、心の底はずっとひとりぼっちだった。


『…………』


…いいよね?もう…疲れた。ひとりで戦い続けるのは。
だってもう、あの人はいないから。…死んでしまったから。そんな人の影を追いかけてても仕方ない…。そうでしょう?

誰に自分が言い訳をしているのか、分からなかったけれど。


『……安室さん』


纏わりつく罪悪感のようなものを見ないふりをして、安室さんの背中に手を回した。
それに気が付いた安室さんが、より一層強く私を抱きしめかえす。

本当に、強く強く、抱きしめられる。
桜が舞うのと相対的に、この地に縛りつけられているようだ。
安室さんの心音が聞こえる。


それからしばらくの間、安室さんは無言で私を抱きしめ続けた。
風が吹いて、桜の木が私たちになにかを囁きかけている。
だけど私たちにはもう何も聞こえない。ここは二人だけの世界。


「…帰りましょうか。送っていきます」


漸く解放されてからも、安室さんは何も話さなかった。
ただ繋いだ手が温かくて安心した。好奇心と不穏を含んだ春の風が心を躍らせ、それに私は大きく深呼吸をする。


「米花町の、ポアロという喫茶店で働いています。明日は仕事ですか?」


『はい…、多分、19時頃には帰ってこれるかと』


「良かったら明日、ポアロに来てください。僕のシフトは20時までですから。勿論無理はなさらずに」


安室さんは私に強要をしてこない。私が明日行かなくてもきっと彼は怒らないだろう。
だけど、いやだから会いたくなる。どれだけ忙しくても、行かなきゃな、って思ってしまう。


『…行きます。必ず。……』


柄にもなく、マンション下でのお別れを寂しいと思ってしまった。その視線に安室さんは何かを感じ取ってくれたのか、優しい手つきで私を引き寄せて、額にキスをした。


「ここは、また今度。…おやすみ。良い夢を。また明日ね」


そう言いながら、長い指で私の唇を触った。くるりと背を向け、歩き出してしまう彼を止めることができなかった。

…また、明日。

心の中で呟いて、唇に触れる。
明日が楽しみに思えるなんて、早く来てほしいと思うなんて、何ヶ月ぶりだろう…。




その日の夜は、何日かぶりに死んだようにぐっすりと眠ることができた。




170104

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