山嵐
□やっつ
1ページ/1ページ
次の日一日は朝起きてからそわそわしっぱなしだった。
何時もなら憂鬱に朝が来て、青すぎる碧空に悲しくなって、苛立ってしまうほど世界が嫌いだったのに。
だけど今日は違う。起きて陰鬱な気分になることもなければむしろどこまでも広がる青空を美しいとすら思う。
朝日が空を、街を、私を染め上げている。
…世界って、こんなに鮮やかだったのか。
モノクロだったはずの世界が急に艶やかに煌めく。
「凛さん、おはようございます!……?」
『おはよう。…どうしたの?私の顔に何かついてる?』
「あ、いえ…なんか、その。今日の先輩、とっても綺麗だなって…。なんかいつもと違うっていうか」
『そんなこと言って、まぁーたお昼のデザート狙ってるんでしょう?買わないわよ?』
「ち、違いますってば!」
『ほら、さっさと仕事終わらしましょう。今日の予定は…』
久しぶりに仕事にも精が出る。ついこの間までは早く終わらせて何の意味があるんだろうと頑張る意味を失くしていたのに。
不思議と自分が仕事をてきぱきこなしていくと周りもそれにつられていくようで、社内のエネルギーがどんどんと高まっていく。それを見るといかにこの間までの自分がフ抜けていたか思い知らされるようだ。
あっという間に業務終了の時間になって、今日は延長することなくほとんどの仕事を全員が終わらすことができた。
「先輩、お疲れ様です!なんか今日はみんなきびきび動いてましたね。やっぱり先輩の力、すごいなぁ」
『…でもそれだけ私がフ抜けていたってことよね。知らずにみんなに迷惑かけてしまって』
「いえいえ、凛さんは悪くないですよ。先輩だって大変だったんですもん。あ、先輩もう帰っちゃうんですか?」
『ええ、今日はちょっとね』
後輩がにやっと嬉しそうに笑った。女の子の勘とは怖いものだ。
「へへ、私、生き生きした先輩が本当に大好きなんです。また良かったら聞かせてくださいね!お疲れ様です!」
『ありがと。お疲れ様』
この子は本当にいい子だと思う。素早く身支度を整え会社を後にする。
このままいけば18時過ぎには米花町に着けるだろう。早く行きすぎると迷惑にならないだろうか。だけど…今は、なんだか少しでも早く、会いたい。
期待と不安が半分半分。
店に行って驚かれたらどうしよう?本当に来たの、とか。冗談のつもりだったら?
昨日のあれだって、もしかしたら夢だったのかも。心が少しだけ通ったと思ったのはただの私の自惚れかも―――。
だけど、言ってくれた。また明日ね、って。
だから私はそこに向かう。すべてが嘘だったとしても、くだらない妄想だったとしても。だってもう私に失うものなんてなにもないから。
米花町に着いてからしばらく歩いてみるのだが、なかなか「ポアロ」は見つからない。あまり土地勘もないのでどうしようかとスマホと睨めっこしながら歩いていると向かいから歩いてきた人にぶつかってしまった。
その時、一瞬何かが頭を過った気がした。
『たた……』
「大丈夫ですか?」
『あ、ご、ごめんなさい!ちゃんと前を見ていなくて』
「いえ、私も注意を怠っていましたから。過失の割合は50:50ですね。お怪我は?」
『大丈夫です!…あ、あの。すみませんがポアロというお店、ご存じでしょうか?』
「ポアロ?…喫茶店のですか?」
『はい!この付近だと思うんですけど』
「筋が1本違いますね。そこの角を右に曲がって大通りを渡ってください。そのまま左に歩くと見つかりますよ」
『ありがとうございます!本当にごめんなさい。ここ、右ですね』
教えてもらったとおりに歩くと、直ぐにその喫茶店は見つかった。ぶつかったのが親切な人で良かった。
…そういえば、何か…ぶつかった時に思ったような。…なんだっけ?
少し考えてみたが思い出せそうになかった。そんなことより、ガラス越しに安室さんの姿が見えて一気に心拍が跳ねあがった。
ドアを開けるとからんと小気味のいい音が鳴る。ふっと入り口に目をやった安室さんの瞳がぱっと輝いて、なんだか恥ずかしくなる。
「凛さん!来てくれたんですね!迷いませんでしたか?」
『は、はい…迷いました。でも親切な人が教えてくれたので』
「連絡先を渡しておくべきでしたね。あ、どうぞ。良かったらカウンターのお席に座ってください。コーヒーで良いですか?」
『あ、すみません…ありがとうございます』
…なんだか、安室さんじゃないみたい。
今日の安室さんからは、秘密の影も、昨日の張りつめたような感じも、なにも無かった。まるで別人のようにすら感じてしまう程愛想よく働いていた。
昨日までの…あれはなんだったんだろう?あれも、そしてこれも安室さんだなんてなんだか信じられない。これも“秘密”のひとつなんだろうか?
だけどこの安室さんも嫌いじゃなかった。仕事をしながら人を飽きさせない会話で楽しませてくれて、10分も経てばもう最初の違和感は消え去っていた。
「凛さん、明日は仕事ですよね?」
『ええ…まあ』
「家まで送っていきますよ。もう上がりますから」
『え?でもまだ20時なってないのに』
「彼女のがきてるので早上がりさせてくださいとマスターに頼んできました」
『えっ!?言ったんですか?!』
「冗談です。暇なので早上がりになっただけですよ。…本当にからかい甲斐のある」
屈託のない笑顔で笑う安室さんに頬が熱くなる。ああ、なんだか…楽しい。落ち込んでいた自分が嘘みたい。生きてるって感じがする。
着替えてきた安室さんと店を出て、ゆっくりと歩きながら帰る。
米花町から家までは大した距離ではない。足が痛くないかと気遣われ、大丈夫だと答えれば嬉しそうに歩きましょうと誘われた。
電車に乗ってもいいが、歩いた方が長い時間一緒に居れると言われるとなんだかもう恥ずかしい。
春の少しだけ冷たい風を感じると、何も言わずとも肩からジャケットをかけてくれる。なんだこのイケメンは。
『本当、なんだか色々すみません。コーヒーもごちそうになったし。寒くないですか?安室さん』
「気にしないでください。誘ったのは僕ですから。僕は大丈夫ですよ」
…この人は、優しい。
私にそんな優しくされるほどの価値があると言うのだろうか?
だけどそんなことを言っても軽く笑いながら私を安心させる言葉を返してくれるんだろう。
そんなことを考えながら、隣を歩く安室さんの端整な横顔をなんとなく見つめる。
ふっと視線が合うと、考えを見透かされたかのように優しく目で笑いかけられた。まるで子どもをあやすかのように。
「…ああ、もう着いてしまいましたね。凛さんといると時間が過ぎるのが本当に早い。明日も仕事、頑張ってくださいね」
『はい。送ってもらってすみません。ジャケットもありがとうございます』
「いえいえ。身体を冷やさないように。ゆっくり休んでください。あ、これ僕の連絡先です。いつでも連絡してきてください」
そう言いながら渡された二つ折りの小さな紙。それを渡すといつものように踵を返して歩き出してしまう。
きゅっと紙を握る手に力が入る。息を大きく吸い込むと、春の青い風が肺の奥深くに入り込んでくる。
『あ、あのっ!』
安室さんがくるりと振り返った。なんでしょう、と穏やかな顔で続きを促してくれる。
『その…良かったら、すこしだけ家に上がっていきませんか。コーヒーくらいならお出しできますから』
心臓がどきどきしている。一瞬の沈黙。いきなりこんなことを言って迷惑だっただろうか?
だけど安室さんはそんな不安を吹き飛ばすような明るい声で答えてくれた。
「いいんですか?それじゃ、少しだけお邪魔しようかな」
その言葉にほっと胸を撫で下ろし、私は安室さんにもう一度近づいた。
170112