山嵐
□とお
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久しぶりに普通の朝を迎えた、気がする。
『…ふわぁあー…』
起き抜けに大きな欠伸を一つして、顔を洗って鏡を見る。
ほっぺた。…昨日の…。
あの一瞬の瞬間が鮮明に思い出されて心臓がきゅうんと締まった。
ふと鏡を見ると鏡に映った自分は酷く幸せそうで間抜けな顔をしていたので慌てて冷たい水で顔を濯ぐ。
『(バカ…中学生じゃあるまいし)』
そんな戒めの言葉を自分にかけてみても、心が晴れやかなのは否定のしようがなかった。
自分は大人で、安室さんも大人で、これから始まる社会の一日の歯車にならなくちゃいけないんだから。
理屈はそうだと分かっている。恋愛ごときにかまけて仕事が、プライベートがぐちゃぐちゃになるなんてこと、もう…。
ふぅと浅く息を吐いて自室を飛び出す。朝食はいつもの駅前の喫茶店で摂ろう。少しでも長く外に居てこの緩んだ顔を直さなきゃ。
朝の喫茶店はどこか落ち着きがなくて、だけど静かな空気が漂っている。
これから始まる慌ただしい世界の、ほんのひと時の安らぎの空間。
この空気が堪らなく好きだった。何故かここに来ると、今日も変わらない一日が始まっていることにホッとする。
バターたっぷりのトーストと、少し濃いめのコーヒーをゆっくりと流し込む。
新聞を斜め読みしながら朝の空気を存分に味わう。そうしながらぼんやりと頭の隅で考える。今日の仕事のこと、夕飯のこと。とりとめのないこと。…安室さんのこと。
…最近、私そればっかりだなぁ…。
ふと気が付けば安室さんのことばっかり考えてる気がする。
…大丈夫。まだ、大丈夫。
まだ、馬鹿みたいに恋に溺れてない。昔みたいに…前後不覚に陥るような馬鹿な恋愛はしていない。大丈夫。…まだ。
『……?』
懐かしい香りが漂った気がして自然と顔が持ち上がった。なんだっけ、この匂い。コーヒーと、煙草の。煙草の?
『あ』
「あ」
隣のカウンター席に座った人と思わず目が合って、素っ頓狂な声が漏れてしまった。
この人。そうだ、間違いない。
『あの、昨日の…道を教えてくれた人ですよね?』
「ええ!覚えていてくださって嬉しいです。無事に…ポアロでしたっけ?着くことができましたか?」
『はい!あの後すぐにたどり着けました。本当にありがとうございます。えっと…』
「昴です。沖矢昴」
『ありがとうございます、昴さん。あ、私の名前は坂神凛です。これも何かの縁ですかね。まさかまた会えるなんて』
本当にそんな偶然もあるものだ。たまたま街ですれ違う人なんて一体この世に何千人といることだろう。それがこうして同じ時間に同じカフェにくるのだから、人生何があるか分からない。
「凛さん…はこれからお仕事ですか?」
『はい。もうすぐ行かないと。昴さんは?』
「私は暇な大学院生ですから…。あ、すみません。どうぞ続きを」
昴さん、は私の持っていた新聞紙をちらりとみて少し気遣うような素振りを見せた。特に真剣に読んでいたわけでは無かったがじゃあ、お言葉に甘えてと新聞に目を戻す。
煙の匂いが漂う。ああ、いつもの…なんだか懐かしい空間。昔に還ったみたいな…安心と不安が混同するあの頃の…。
「あの、凛さん」
『はいっ!?』
少しぼおっとしてしまったようだ。声をかけられ慌てて現実に意識を戻す。
「その…ハンカチ、もしかして間違えて持っていませんか?青いハンカチ」
『ハンカチ…あ!そうなんです!昨日気が付いたんですけど私の鞄に入ってて』
「やっぱり…ぶつかった時に間違ってしまったんでしょうね」
『あ…ごめんなさい。今日は持ってなくて。今度でもいいですか?』
「勿論、いつでもいいですよ。凛さんは毎日ここにきていますか?」
『いえ…時間がある時だけで。…じゃあ、そうですね。明日の夕方とか空いてます?』
「ええ!いつでも暇していますから。またここでいいですか?」
『はい!じゃあ18時くらいに…大丈夫ですか?』
「明日の18時にここですね。すみません、お手数をかけてしまって」
『いえ、元はと言えば私が悪いですから。…じゃ、また明日に。失礼します』
「ええ。………。また明日」
手早くお会計を済ませて電車に飛び乗った。こんなことってあるんだなぁと不思議な感慨すら覚える。
なんだか出会いっておもしろい。安室さんも大概奇抜な出会いだし、昴さんも。これも何かの縁なんだろうな。
電車の窓から桜並木が見えた。いつものあの大木は上から見てもやはりなにか目立つものがある。
出会いと、別れか…。
桜の木を少し客観的に見下ろしながら、朝の電車に揺られ、少し前の安室さんとの出会いをなんとなく思い浮かべる。
そうして今日も社会の歯車に巻き込まれていった。
170228