山嵐
□とお あまり ひとつ
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「凛さんー!これってどうやるんでしたっけ?」
『それはこれをこうして…この間のあれと同じで』
「横からすみません、○○の提出終わりました」
『ありがと、ご苦労様。悪いけど次はこれをお願いしていい?』
毎日は一寸の狂いもなく、ひたすらに流れていく。
特別に好いことも、悪いことも起こらない空間。それはとても退屈で、安定していて、とっても幸せで、とっても不幸である空間。
『…………』
オフィスから見下ろす街並みは綺麗だ。世界は正常に作動している。変わりない平日がそこでは今日もちゃんと繰り返されている。
安室さん…なにしてるのかな。
ふとした拍子にぼんやりしてしまっている自分に気が付きはっとする。
駄目駄目。…仕事中じゃない。
なにか連絡がきていないかと携帯を取り出す。暫く何をするわけでも無くその画面を見つめてると突然着信音が鳴り響いて、驚きのあまり携帯を落としそうになった。
『は、はいっ!?』
「…ああ、もしもし?安室です。今、大丈夫?」
『え…あ。大丈夫です…。どうしたんですか』
「今日仕事の後空いてる?」
『…空いてます。たぶん…19時くらい終わりそうです』
「じゃ、その時間くらいに迎えに行くよ。近くでご飯食べて帰ろう?」
『分かりました。また終わったら連絡します』
「僕も連絡する。仕事中に悪いね。…じゃ、頑張って。また後で」
ぷつん、と電話が切れて、ふうと大きく息を吐いた。
どうして、この人は。どうして。
あまりの幸せな出来事に思わず身震いをした。
どうしてわかるの?私が欲しい言葉を。私が欲しいときに。
今だってそう…ただなんとなく、安室さんから連絡がこないかなぁって…なんとなく思ってただけなのに…。
まわりの状況を確認して、煙草を握りしめて屋上に向かう。
ひとりになりたかった。外の空気と煙の匂いが無性に恋しくなった。
昼前の屋上には誰もいなかった。雨が降る前の湿った重苦しい空気が充満している。そういえば天気予報は雨だったっけ。朝、急いでたから傘置いてきちゃったな…。
大きく深呼吸をする。怠慢な動きで煙草に火を点けて、重圧に溜まった空気を肺の底から吐き出す。
もう、嫌なのに。昔みたいに恋に溺れて周りが見えなくなるなんて。そんなのもう、嫌なのに。
なのに…安室さんはいつの間にか傍に居て、さりげない言葉と行動で私を安心させてくれる。あんな風に戻りたくないのに。なのに、なのに…私…。
いつの間にか安室さんに甘えようとしている。また誰かに依存して生きていこうとしてる。
落ち着きのない動きで煙草を何度も口に運ぶ。…怖い。このまま安室さんの傍に居たら…その優しさにずるずると引っ張られてまた取り返しのつかないことになってしまう気がする…。
それに……。
右手に持った煙草を見つめる。瞬く間に自身の熱で灰になっていく刻。次から次へ、勝手に燃え上がってそれの意志自体とは関係なしに燃え堕ちて、無くなって風に流されていく。
空を見上げた。灰色の空は今にも泣きだしそうにぐずついていた。重い重い、息が詰まるような空気。春の雨がもうじきに降ろうとしているのだ。
ぽつり、とアスファルトに黒い痕がついて屋上を後にする。がちゃんと閉め切った空は波乱を予感するように不穏な空気に満ち溢れていた。
仕事が終わって安室さんが迎えに来る頃には、春の雨は本降りになっていた。
連絡がきて急いで会社を出ると、安室さんはにこやかに笑って待っていてくれる。
私を濡れないように肩を抱いて、密着しながらひとつの傘にはいる。相変わらず安室さんの話は楽しくて、私を飽きさせない。
次の日も早いので軽めのもので夕飯を済ましても、お決まりのように家まで送ってくれるという。
『すみません。いつもいつも』
「いいんですよ。それとも凛さんに優しくしてもいい立場になったと思ったのは間違いですか?」
こんなに優しくて、顔も格好良くて、女の子を喜ばせるこの人にこんなことを言われるなんて私は幸せ者なんだろう。
…でも、だからこそ。こんな中途半端な気持ちでいるなんて失礼だと思ったから。
歩調がやがて緩やかになって、遂には止まってしまった。
安室さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「凛さん?」
『……どうして、ですか』
雨が降っている。優しく春の色に世界を染め上げる雨。
『どうしてそんなに優しくしてくれるんですか。私にそんな。…そんな価値なんてないのに』
音は静かだった。優しい音だった。世界にふたりだけになってしまったかのような錯覚がした。
「そんなことありません。自分に価値がないなんて、そんな」
『違うんです、違う…私は…。私は。まだ…前に付き合っていた男の人のことを忘れられないでいるんです…っ、それを…安室さんに甘えることで忘れようとしてる…!私は…自分勝手で、酷い人間なんです…!!』
だって、そうなのだ。現に私は今でもあの人が吸っていた煙草を忘れられないでいる。忘れたい、なんて心では思いながら、結局忘れたくないから毎日のように煙草を吸っているのだ。
そしてそのぽっかりあいた心の穴を、都合よく安室さんで埋めようとしているにすぎないのだ。
安室さんは優しくて、誠実だ。
安室さんがそうであればあるほど、私もちゃんと彼と向き合わなくちゃいけない。
安室さんの腕が、私の肩をぐいっと強く押した。一瞬なにが起きたのか分からなくてよろめいたところを歩道の端に押し付けられ、次の瞬間、柔らかい唇が唇に押し付けられていた。
「…凛が好き。…。愛してる」
『……っ!!』
目を見てその言葉を言われた刹那、瞬く間に涙が溢れだした。堰を切ったように流れ出したそれは、ぽたぽたと春の雨に紛れて落ちていった。
「君が、他の人を見ていたって…僕は凛の傍に居たい。それじゃダメかな。僕のことなんてずっと見続けていなくていい。昔の男を思い出してもいい。だから…凛の傍にいちゃ…ダメかい?」
優しい声。優しい瞳。優しい唇。
真っ直ぐな瞳でそんな言葉を酷く優しく投げかけられ、するりするりと涙がまた流れ落ちる。
こんなこと…こんなこと許されるのだろうか?
「僕のせいにしていい…自分のせいにしないで…僕が傍にいさせてって言ったから…それで傍に置いてくれれば。それでいいから…」
私のせいじゃない?許される?罪じゃない?
安室さんが私を抱きしめた。前が見えない。目を閉じて、ひたすら頬を涙が流れる感触を噛みしめる。
雨の音が弱まっていく。すべてを洗い流して。もう…なにも写さないで、見せないで。
自分の中の、遠ざけていた何かが音を立てて崩れたような気がした。
170309