山嵐

□とお あまり ふたつ
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暗闇の中、男女のまぐわう音が聞こえる。
藍色の帳の最中、確かにその行為に没頭しているはずなのに、どこかそれは別の世界の音のように聞こえてしまう。

つう、と上に覆いかぶさる安室さんの頬に、一滴の汗が滑り落ちた。
それはとても綺麗で、神秘的に厭らしくて、非現実的なワンシーン。

薄暗い部屋。乱れる吐息。安室さんのシルエット越しに見慣れない天井が見えている。


…どうして、こんなことになってるんだっけ。
どうして…こんなこと、してるんだっけ…。

身体も心も抱き込まれ、酷く熱を含んでいるはずなのに。孤独ではない夜に幸せな筈なのに何故か心の隅は寂しいと叫んでいる。だって。


「……ッ」


『…ッあ、…ッ!!』


回した手に触れる背中も、微かに聞こえる吐息も、私の肌に触れる優しい手も、…全部、ぜんぶ。…あの人のものとは違うから。

安室さんはこんなにも近くにいるのに、目を離せば心の方はどんどん遠くへ離れて行ってしまう。どうあっても埋められない理想と充分すぎるほどの現実が私の心と身体を引き裂いていく。

そしてふ、っと熱に浮かされた現実を思い出したとき、それを悟らせないように私は自分の心に言い聞かせる。…大丈夫。大丈夫。まるで呪文のように。






いつもより早い時間に起きたが、目覚めは悪くなかった。
隣に安室さんがいなくて何故か少しだけホッとする。彼はどうやらシャワーを浴びているようだ。
身体には未だ甘い倦怠感が残っていた。久しぶりに感じた、誰かが私の肌に触れる感覚。優しい手。大きな手。改めて昨日の睦言を思い出すと顔が熱く染まる。

その時、がちゃりと寝室の扉が開く音がした。


「……、あ。起きたの?……?」


安室さんが近づいてくる気配がして、慌てて布団の中に潜り込む。駄目。…恥ずかしい。密閉された布団の中に、どくんどくんと心臓の音が鳴り響いている。


「…。おはよう」


『……………』


恐らく安室さんは私の横に腰を下ろしたんだろう。そして布団越しに私の身体を優しく撫で上げた。胸の中が苦しくなる。ああ、こんな幸せ。いつぶりだろう?胸の中が甘酸っぱくなって、苦しくて、思わず目を細めてしまいそうなくらい頬が緩んでしまって、息が止まりそうになる。
こんなにも幸せなこと。ふっと頭のどこかでいつかこの幸せなことにも終わりが来ると…影の世界が迫ってくるような気がするのに、もう気が付けばこの幸せに溺れてしまって、もう…何も考えられない。


「まだ6時前だけど。一度家に帰るだろう?何時に出ていけば間に合う?」


恐る恐る布団から顔を出す。赤い顔は幾分マシになった筈だ。


『あと、30分くらい。かな。私も起き…きゃっ!?』


その一瞬を逃さずに安室さんが布団の中に潜り込んできた。後ろからすっぽりと包まれるように抱きしめられる。お風呂上がりの清潔な香りと、安室さんの香りが胸いっぱいに広がってぐっと強く目を閉じてしまう。


「じゃあ少しだけこうしていられるな」


『もう……』


抵抗の言葉は出てこなかった。寧ろ辞めて欲しくなんてなかった。安室さんはぎゅっと強く抱きしめたり、頭に頬ずりをしたり、時折その長い指で頭をくしゃくしゃと撫で上げてくれる。もう影の世界など入る余地が無いくらい、幸せで甘い気持ちが身体中を埋め尽くす。
私はこんなにも幸せでいいのだろうか。いや、良くないとしても、もう今はこのまま…。



結局時間ギリギリまで布団の中で触れ合って、名残惜しそうに普段の毎日に繰り出した。
本当は現実になんて還りたくなかった。いつまでもここで2人で居たかった。
だけど幸せになるためには離れなくちゃいけないのだ。

会社ではいつも通りの時間が流れた。だけど今までと違うのはふとした拍子に安室さんの、昨日の事を思い出してしまうこと。
安室さんが私に触れた体温は、時間が経ってもなかなか離れてくれなかった。



仕事終わりにいつものカフェに向かう。ここにくるのはいつも朝だから夜にくるのはなんだか不思議な感じがした。
いつもの新鮮で気怠い空気感とは違う、どこか開放的で和気あいあいとした夕方の空気。
朝とは違い年齢層も若くなっていて、そこにいるピンク色の髪色をしたすらっと背の高い昴さんの姿はなんだかやけに目立っていた。


『すみません!少し遅れてしまって』


「いえ!私も少し大学が長引いていましたから。あ、どうぞ」


『お邪魔します』


昴さんが広げていた小説を閉じ、私も彼の向かい側に座る。


『本当にすみません!これ…』


「あ、それです。すみませんね、わざわざ」


『いえいえ…元々は私が間違って持って帰ったものですから』


「ありがとうございます。………」


『……?あの、なに…』


「あ、動かないで。シャツの襟になにか…」


昴さんの手が不意に伸びて、襟に優しく振れる。そしてなにかを引っ搔くような素振りをした後その手を引っ込めた。


「ゴミがついていましたよ」


『ホントですか?いつからだろ、恥ずかしいな…』


「でも、ここにはもっと恥ずかしいものが付いていますが」


『へ?』


そう言いながら昴さんはとんとんと首筋を叩いた。首?と思いながら手鏡でそこを見てみると。


『なッ!!―――ッ!?!』


そこには紅い痣。…キスマークが微かに、でもしっかりと残されていた。通りで今日はやけに視線を感じた訳だ。皆それに気が付きながらどう声をかけるか迷っていたのか…。


「彼氏、ですか」


昴さんはそれをからかうようにさらに言葉を重ねてきた。色んな意味で顔が熱くて仕方ない。


『……はい』


「もしかして…あのポアロの?」


『え?あ…まあ。昴さんもポアロ、行くんですか?』


「いえ、前を数回通る程度です。大体爽やかそうな青年がいますからなんとなく、彼かなと」


昴さんはにこやかに笑いながら煙草に火を点けた。癖のある煙の匂いが一瞬鼻腔を刺激する。懐かしい匂い。思い出の中だけの、愛おしい匂い。
そういえば、昨日と今日は煙草を吸っていない。家に帰ってないから仕方ないのだけど。だけどそれだけじゃない、安室さんのことを考えるとなんだか煙草の味を忘れていってしまう。


『…一本、いただいてもいいですか?』


不意に懐かしい気持ちに浸りたくなった。昴さんは一瞬意外そうな顔をしたけれど、すぐにどうぞと差し出してくれた。

貰ったものを咥え、火を点けるとつん、と舌先が煙で痺れた。その微かな痛みすら今となっては久しぶりに、懐かしく感じてしまう。
この間までの自分が誰か違う人のように感じた。


「意外ですね、煙草を吸うなんて」


『似合いませんか?まぁ…一日一本も吸わないくらいですけど』


気持ちが落ち着いていく。煙の匂いが肺を満たしていく。


『…思い出なんです。この煙草。外国のやつでしょ?結構クセがあるから忘れられなくて』


「匂いというのは不思議ですよね。どこにいても、その時の匂いを嗅ぐだけで…一瞬でその場所に還ることができるんですから」


『ふふ、昴さん、意外とロマンチストなんですね』


「似合いませんか?」


『あはは、そんなことないですよ。本を読むのがお好きみたいだし』


一瞬に流れる沈黙。煙草と珈琲の混ざりあった落ち着いた香。とても居心地が良くて、思わず目を細めてしまう。
沈黙を破ったのは着信のコールだった。光る画面には安室透の文字が照らされていた。


『あ、…ごめんなさい』


「いいえ、そろそろ出ましょうか。お会計はいいですよ。来てもらったのはそちらのほうですから」


『ダメですよ!もともとは私が間違えて持って帰ったんですから!』


「でももう終わりましたよ?お会計」


『はっ!いつの間に…っ!』


「今日はいいですから。その代わり…またどこかで会えたらお話をしましょう。今度はゆっくりと」


『ごめんなさい、ご馳走様です。はい!昴さんとはまたここで会えそうですね。…じゃ、すみません。おやすみなさい』


昴さんに会釈をして店を飛び出し、電話をかけなおす。電話越しに聞こえる安室さんの優しい声。
その電話の向こう側には、煙草の香りが届かない世界が広がっていた。




170504

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