山嵐
□とお あまり みっつ
1ページ/1ページ
『…はい!?家に来るんですか?…今から!?』
電話越しの甘い声の恋人の提案は唐突なものだった。
昴さんと別れ、電話をしながら夜道を歩いていると安室さんが急に家に来たいと言い出したのだ。
別に困るものでも嫌なものでも無いが、なんだか少し緊張して気後れしてしまう。けれども安室さんはこういうとき結構強引だ。それはきっと私の一瞬の躊躇もお見通しだからなのだろうけど。
マンションの下には既に安室さんが立っていた。どうやら探偵の仕事で近くまで来ていたらしかった。相変わらず多忙な生活をしているようだ。
『すみません、待ちましたか?』
「ううん、今着いたところ。…気づいたんだ?」
安室さんがニヤニヤと笑いながら首筋を見つめてくる。思わず頬がカッと染まり、恥ずかしさに急いでエレベーターに駆け込んだ。
『もうっ!さっきまで気づかなかったんだから!…会社の人になんて思われたか…』
「いいじゃないか、見られても別に減るもんじゃないし」
『減ります!私の中の大切な何かが…っ!、ひ…っ!』
エレベーターの狭い個室で壁に追いやられ、首筋に顔を埋められた。サラサラの綺麗な髪が頬をゆっくりとくすぐる。
『ちょ…っ!…ッ…!!!』
厭らしい意図をもって、自分のものだと主張するように首筋の痕を再び舐られる。ぞくりぞくりと腰の辺りから甘い痺れが回ってくる。人が乗ってくるかも、と微かな抵抗だと言わんばかりに胸に手をやり押し返そうとするが、びくっびくっと身体が痺れるばかりで押し返すことができない。
「ダメ?」
『………だめ』
漸く解放されて、精一杯下から睨み付けてみるが安室さんは勝ち誇ったように笑った。その時丁度自室の階についたので逃げるようにエレベーターを飛び出す。安室さんは背中越しに楽しそうに笑い声をあげた。
『もう…ただの変態なんだから。はい、どうぞ…』
「お邪魔します」
そういえば夕飯を食べていない。今更買いに行くのも面倒だということで家にあるもので安室さんが作ってくれる。自分がやると言ったのだが安室さんは料理が得意らしく彼に任せることにした。
『料理、上手なんですね』
「ただ好きなだけだよ。ほら、座ってて」
人の作ったご飯を食べるのなんて久しぶりだ。そういえば、と思い出す。…あの人は料理が下手だったなあ、と。不器用なりに頑張って作ってくれた料理。美味しいとはお世辞にも言えなかったけど、二人で騒ぎながら作った時は楽しかったっけ…。
ソファーに座る。部屋の景色も、私も、過去と…ほんの数カ月前と一緒。なのにどうして…こんなにも変わってしまったんだろう。少し前まで当たり前にあったものが、すっぽりと抜け落ちるというのはなんとも奇妙な感じがした。
この空間はなにも変わらない。違うのはあの人がいなくて、安室さんがいるということ。
「…昔の人のことを思い浮かべているでしょう」
不意に声をかけられハッとした。なんて答えたらいいのか分からず、曖昧に安室さんの瞳を見る。安室さんの表情は穏やかだった。
良い気な筈がない。事前に言っているとはいえ、私の安室さんは既にそういう関係なのだ。他の男のことを考えられて、誰が嬉しいというだろうか。
『ごめんなさい、私…』
「いいですよ」
安室さんは優しく微笑んで頭を撫ででくれた。その全てを包み込むような大きな手に、安室さんに対しての何かの感情が心のどこかで溢れた。
「言っただろ?昔の男を思い出しても、僕のことを見続けてくれなくてもいい、って。…その人のこと、好きだったんなら思い出すのなんて当り前さ。それだけ好きだったってことなんだから」
涙腺が緩んだ。喉の奥が熱くなる。情けない顔を見られるのが恥ずかしくて、安室さんの胸に飛び込む。安室さんは何も言わずに頭や背中を撫でてくれる。
…今までずっと、自分で自分を否定していた。
あの人のことを想いだすことを、引きずっていることを。だってもうこの世にはいない人。追いかけても存在しない亡霊。そんな人のことを想ってしまうのは間違っていると。
なのに、安室さんは肯定してくれた。好きだったことを否定しなかった。そうだ。…それでいいんだ。私は昔の自分まで否定していたから、あの人のことを、そして安室さんのことを想うたびにこんなにも胸が引き裂かれるような罪悪感に苛まれていたんだ。
私にはあの人しかいないような気がしていたから。あの人こそが運命の人だと思い込んでいた。…だけど、違った。もうあの人はいないから。
「…ご飯、冷めてしまいますよ」
『ん……』
暫くして身体を離す。気恥ずかしい思いもあったが幸せだった。そのまま二人で並んで安室さんの作ってくれた料理を食べた。美味しくて、楽しくて、幸せだった。
『ごちそうさまでした!…ふぅー、お腹いっぱい…』
「喜んでくれてなによりだよ。凛が望むなら毎日でも作りに来るけど?」
『多忙なクセに…。でも、安室さんといたら、私太っちゃいそう』
「それはそれで可愛いけどね。…ねぇ、デザート頂戴?」
『デザート?紅茶淹れようか?コンビニで何か…』
「違うよ。ここ」
安室さんが唇を指さしてにやっと笑った。言葉の意味を理解して狼狽する。つまり…キスが欲しいということだろうか。私から?こんな明るいところで?
『え、ちょ。…その』
「してくれるまで帰らないよ」
『う…そんなぁ…』
とりあえず肩に手を置いてみるのだが恥ずかしくて目すら合わせられない。心臓がバクバクいっている。こんな改めてキスするなんて、久しぶり過ぎて何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
『め、目は閉じてて。見られると恥ずかしいから…』
「仕方ないなぁ」
ふっと瞼を下ろした安室さんの顔を改めて見るとどきどきした。照明を浴びて薄く輝く髪の毛。長いまつ毛。整った顔。こんな綺麗な人が私のことを好きだと言ってくれるなんて信じられない。
益々緊張してきた。ただキスをするだけがこんなに恥ずかしいなんて。安室さんが呆れたように口を開いた。
「ねぇ、まだ?」
『わ、分かったから…』
覚悟を決めて、ちゅ、とその唇に唇を重ねる。もう耳まで赤く染まっているのが自分でも分かった。安室さんは満足そうに笑って目を開けた。
「よくできました」
『うー…、あっつい、もう…』
窓を開けようか、と安室さんが立ち上がった。顔の熱がなかなか冷めそうにない。両手で頬を抑えてなんとか緩んだ顔を戻そうとする。
その時、窓際で安室さんがん、と声をあげた。
『どうかした?』
「…凛、煙草吸ってるの?」
そういえば置きっぱなしだった。習慣にしていた朝一の煙草。一瞬言い訳することを考えたが、素直に話すことにする。
『あー…、うん。1日1本も吸わないくらいだけど』
「……これも、もしかして?」
昔の男の?と目で語られ、視線を外して頷く。安室さんが近づいてきて、頭をぽんぽんと撫でた。
「じゃあ依存してる訳じゃないんだね?」
『うん。…寧ろ、あんまり好きじゃなかったし』
「じゃ、これはひとつ約束。煙草はダメ。これは僕が預かっとく」
いいね?と念を押され、こくんと頷く。心の中に奇妙な感情が生まれた。
「じゃあ僕はそろそろ帰るよ。玄関まででいいから。早く寝るんだよ」
『ん。今日はありがと。…おやすみなさい』
額に触れるだけのキスをして安室さんが部屋を出ていった。開け放された窓から冷めた風が入り込んだ。窓から外の世界を見てみる。
煙草。
安室さんにとられた時、浮かんだのは奇妙な感情だった。
煙草は唯一私が自ら過去に戻る手段だった。ふとあの人のことを想いだすんじゃない、自分から思い出すためのものだった。
それが無くなるのは不安だという気持ちは分かるが、驚いたのはそれをとられてどこかホッとしている自分がいることだった。
相反するふたつの思い。風が心地いい。春の匂いが薄くなり、ほんの微かに夏の匂いが私を包む。
もう、煙草吸わなくていいんだ…。
窓から見える景色はあっさりと、遠くの方まで続いていた。
170620