山嵐
□とお あまり よっつ
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「彼とはその後どうですか?」
どうしてまた昴さんとこのカフェでお茶をしているのか分からない。
まさか偶々気まぐれで入った、同じ時間にまた昴さんと出会うなんて。これはもうある種の運命としか思えない。
「どうかしました?」
『え?あ。いや、ほんと昴さんとよく会うなあってしみじみ思ってて』
「そうですね、運命、とはまさにこのことでしょう」
『口説くには早すぎますよ?』
さりげなくテーブルに置いた手に昴さんの手を重ねられ、反射的に振り払ったが私は悪くないはずだ。
昴さんは特に嫌な顔もせず対面で爽やかに笑った。
『昴さんって、結構手、大きいですよね。というか背も高いし、インテリっぽいのにガタイも割と』
「口説いてるんですか。貴女も結構遣り手ですね。拒否しておいて自ら口説いてくるなんて」
『何なんですか馬鹿なんですか?』
会ってそうそう間もない人間につい軽口を叩いてしまい、すみません、と一応謝る。事も無げに「馬鹿とは酷いですね」なんて言ってる昴さんに安心する。
『…昴さんって、なんだか第一印象と全然違います…。もっと真面目でお堅い人だと思ってたのに』
「それは凛さんもですよ?まさか会って数回の人に馬鹿と言われるとは思いませんでした」
『それはその…ごめんなさい。でも…昴さんはなんだか話しやすいです。私、普段こんなことすぐに言わないですもん』
「波長、みたいなのがきっと似ているんですよ。だからこうして同じ時間に同じカフェに来たりする」
どこか秘密めいた、悪戯っぽい瞳で笑われ少しだけドキっとする。共犯者を匂わせる雰囲気に呑まれてしまいそうで、思わずコーヒーに手を伸ばした。が、そのコーヒーを昴さんにとられてしまった。
『ちょ、私のコーヒー!』
「で、彼とはどうなんですか?」
『コーヒー!!返してくださいよ!』
「話してくれたら返してあげますよ」
相変わらず昴さんは余裕の表情だ。この人、本当に見かけによらず意外と意地悪なのだ。安室さんならきっとこんなことはしないのに。
力で敵わないのは目に見えているので取り返すことは諦めた。
『どうって…。普通に順調ですよ』
何と返せば良いのか迷い、とりあえず曖昧に返事をする。すると昴さんはくすくすと小馬鹿にしたように笑いだしたので思わずムッとしてしまう。
『なんですか、もう』
「いえ?順調ならなによりです。ただ」
昴さんが私のコーヒーを机に戻した。少し身体を屈めて私の目線と同じ位置になる。射抜くような視線に無意識に身体が硬くなる。
「付き合い始めた直後なのに…最初に幸せ、とか、好き、とか。そういうのが出てこなかったので可笑しく思いまして」
心臓が一際大きく鳴った。好き?…幸せ?喉が渇いてしまって、コーヒーを口に運ぶ。
『お、思って…ますよ。ただ』
「口に出して言わなかっただけ?真っ先に浮かばなかったのではなく?」
――真っ先に浮かばなかった?
そんなこと。いや、でも確かに浮かばなかったけれど。でも。思って無い訳じゃ無くて。じゃあ、でも。
頭の中の信号が、ぐるぐると点滅してまわる。正確に走っていた電流が乱れていく。手も微かに汗ばんできた。思った?本当に?優しい安室さん。私を愛してくれると言った安室さん。幸せを感じなかった?そんなことはない。確かに幸せだった。じゃあ、私にとっての安室さんって…何?
ぎゅ、と鼻を摘まれてはっと我に返った。昴さんの顔は無表情だった。もともとの淡白さが急に恐ろしく感じるほどに、その表情からはなにも汲み取れなかった。
「すみません、少し意地悪しすぎましたね」
『…あ。……』
何かを言おうとしたけれど、何も言葉が出てこなかった。昴さんは一口コーヒーを啜ると、さっきまでの柔らかい雰囲気に戻った。
「悪いことではないですよ。でも、もう少し恋を楽しんでもいいんじゃないですか?それが凛さんの恋愛というのなら、それでいいのですが」
優しい雰囲気に安心する。ふうと短く息を吐いてみる。恋を楽しむ、か。思い出と共に鈍い痛みが蘇ってきて、熱いコーヒーを無理やり喉に流し込んだ。
『……駄目なんですよ、私。そういうの』
「駄目、とは?」
先程までの詰問口調とは違い、同調するような問いかけに思わず心が緩み、自然と口が開いた。
『恋に溺れると、周りが見えなくなるんです。好きでどうしようもなくなって、相手にそれを押し付けてしまう。前の彼氏にはそのせいですごく迷惑をかけました。…恋愛は』
再びコーヒーを口に含んだ。やけに口と喉が渇く。
『…ただ、好きって気持ちだけではやっていけないでしょう?』
それは自分自身への問いかけでもあった。こんなこと誰にも話してなかった。話す必要もないし、言って私を見る目を変えられたらどうしようと恐れていたのだ。
だからいつ縁が切れてもおかしくない、昴さんには話せたのかもしれない。
昴さんは頷き、緩やかに相槌を打った。そして暫くの沈黙の後、ゆったりと口を開いた。
「ヤマアラシのジレンマ、という言葉を知っていますか?」
聞き慣れない言葉に小首を傾げる。続けて昴さんは言葉を紡いだ。
「ヤマアラシは自分の針が相手に刺さることを恐れて、相手とくっつきたいのにくっつくことができないそうです」
へぇ、と初めて聞く言葉に関心を示す。
「彼らの距離感は、まさに凛さんと彼のような距離感ですよ」
昴さんと別れた後、電話で呼び出され私は安室さんの家へと向かっていた。
今日は少しだけ頭が疲れた。昴さんの言うことは、なんだかいちいち私の頭と心をフル回転させてくる。
夜道を歩いていると、向かい側から安室さんが歩いてきたので手を振り返した。
『出てきてくれたの?』
「こんな夜道に一人で歩かせるのは危ないからね。……?」
安室さんが微かに顔をしかめた。
『どうかした?』
「煙草臭い…」
え、と思って自分の髪の毛の匂いを嗅いでみると、確かに煙草の匂いがした。昴さんの煙がついてしまったのだろう。
訝しげな安室さんに、事を察し、慌てて手を振った。
『吸ってないよ?!さっきまでカフェの喫煙席にいたから…禁煙席空いてなくて』
昴さんと、とはなんとなく言わなかった。嘘ではない。喫煙席に座ったのは昴さんがいたからというのもあるが、本当に禁煙席は満席だったのだ。
「本当ー?」
『本当だってば!そこまで煙草好きじゃな…』
「じゃあ、キスして?」
『はい!?』
安室さんは悪い顔をしながら私を歩道の脇に追い込んだ。キスの味で分かるから、とニヤニヤしながらそんなことを言う。
こうなったらきっと何が何でもキスをさせてくるので、ならば人がいないうちにと思い切って唇にキスをする。味、しなかったでしょ?と恥ずかしいのを堪えながら言うとうんと頷いて安室さんは嬉しそうに私を抱きしめた。
一瞬の沈黙と、二人の時間が初夏の風にのって空に吸い込まれていく。
幸せ。好き…。確かにそう思っているのに。こんなにもそれを感じているはずなのに…どうして自信をもって昴さんに言うことができなかったんだろう?
ヤマアラシのジレンマ。
その言葉だけが、やけに心の中を何度も何度もかき乱していた。
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