山嵐
□とお あまり いつつ
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透さんといると、少し前までのどこにも動けないでいた自分が嘘のように穏やかな気持ちになれる。
私たちは毎日のように一緒に過ごした。といっても透さんは仕事が中々に多忙だし、私だって仕事があるために一日数分だけしか顔を合わせない日もあるのだが。
だけどその、少しの時間だけでも私の心は満たされた。そしてその短い逢瀬は更に二人のことを燃え上がらせた。
先に帰った方の家に、もう片方が帰ってくる。
同棲に踏み込まなかった訳は、まだ付き合って間もない等色々理由はあったが、なにより私は透さんの「秘密」を、透さんは私の「過去」を。なんとなく見ないように、遠ざけるのが暗黙の了解のようになっていたからかもしれない。
お互いのそれは、お互いが秘める扉であり、安易に踏み込んではいけないというのは分かっていた。
近づけない苛立ちと、踏み込んではいけないと思う自制心と、躊躇と。
ヤマアラシのジレンマは、そのほかの距離が近づくにつれ私の心に顕著に影を落とした。
「…そういえば、最近よくカフェで会うっていってた人には会っていないの?」
『うん、まあ私もあのカフェに行くことってあんまりないし。最近は透さんのお家にもよく行くから。…ってあれ、もしかしてヤキモチ妬いてた?』
「ん?ん…まぁ、少しはね。そりゃ」
『あは、あの人はそういうんじゃないってば』
今日は透さんの家で夕飯を食べていた。
探偵の仕事が無い日は久しぶりだ。ただ、透さんが「探偵の仕事」と言って家を空けているのが、果たして本当に探偵の仕事なのかはなんとなく察しがついていたことなのだが。
それは透さんの「秘密」の部分なのだろう。
『透さんって結構嫉妬するよね。私がポアロでこの間マスターと話していた時も…』
「それは凛もだろ?僕がお客さんと喋ってたら拗ねるくせに」
『だって!あれはあの女の人達絶対透さんのこと狙ってたもん!…あ、電話鳴ってるよ?』
「ん?ああ。いいんだよ」
『本当に?……仕事のことなんでしょ?』
多分、探偵ではない、「秘密」の方の。
含みを込めた目でそう言うと、透さんは口元に軽く笑みを浮かべて、観念したように息を吐いた。
「…どうして?そう思うの?」
『目。透さん、そっちのことになると、ほんの一瞬だけどすごく目が細くなるから。…秘密の匂いは、分かるよ』
「はは、すごい観察眼だなぁ。意外と探偵に向いてるかもね」
言葉の続きを待っていいのか、次の話題を探そうとする。すると透さんは私の隣に座って、すっと視線を合わせた。
「…実はね。僕は…警察なんだ」
唐突に紡ぎだされた言葉にドキッとする。…やっぱり、私の感覚は間違っていなかったのだと。
「秘密だよ。探偵の仕事も勿論しているけど。本職は警察さ。潜入捜査をしている。…今まで黙っててごめん」
警察。潜入。そのことがどれだけ負担か、命を危険に晒しているか。分かるからそんな大切な「秘密」にやきもきしていた自分が恥ずかしくなった。
「…紅茶をいれようか?ポアロで古いのを貰ったから…」
『あのね。私も。聞いて…欲しい』
あの人の、「過去」のこと。
透さんは自分の大切な扉を開けてくれた。だったら私も話さなければいけないと思ったから。
『あ、でも…透さんにとって聞きたい話じゃない…よね』
「ううん。聞きたい。凛の痛み、ちゃんと知りたいんだ」
じゃないと昔の人にいつまでたっても勝った気がしないし、と透さんは穏やかに笑った。
安心する。大きく深呼吸をする。
そして静かに話し始めた。あの人のことを一つずつ一つずつ思い出して、そして古い箱にしまっていくかのように。
『私のね、前に付き合っていた人も…警察官だったの』
透さんはえ、と小さく声を漏らした。
『まぁ、正確に言うと警察官とはちょっと違うんだけどね。でも…潜入捜査とか、なんだか大きな事件にいっつも首突っ込んでたなぁ…』
「不安にはならなかった?その…死と隣り合わせだろ?」
『うん、不安だった。でもあの人ね、なーんか殺しても死ななさそうっていうか。怪我とかはよくして帰ってきたけど、くたばってるようなところは全然想像できない人でね。不安だったけど…心のどこかではこの人は死なないって妙に安心してた』
綺麗なままのあの人が、綺麗なままに蘇ってくる。思い出すのがあんなにも苦しかったのに、今日はすんなりと思い出が頭の中に浮かんでくる。
『私は…あの頃はなにも知らなかった。ただ、好きなだけでいいと思ってた。あの人に出会って、人ってこんなにも変われるんだって…恋をするっていうことを初めて知った気がする。でもね、一度だけ。…言われちゃったんだ。それが今でも私の胸にとどまってるんだけど』
夕陽。重苦しい車。赤く照らされたあの人の端整な横顔。
癖のある声が、今でもすぐ横で聞こえてくるようだ。
『…お前は俺にどうしてほしい?お前の愛を返せない俺はいらないか?お前は俺が好きなんじゃなくて、俺が愛を囁く自分のことが好きなんじゃないのか?』
冷たい言葉。相変わらず何を考えているのか、読めないポーカーフェイス。
あの人はどんなことを想って私の隣にあの時いたんだろう。
『私が構ってくれないあの人にちょっと拗ねてたらそんなことを言われた。そして、私はそれに、すぐに返事をすることができなかった』
分からなくなった。私が愛してるのはなんなのか。愛だと思っていたのは本当に愛だったのか。あの人のためにと思ってぶつけていた愛は、あの人にとってなんだったのか。それはただの自分の欲を押し付けていたんじゃないのか。
『そして、訳が分からなくなって距離を置いてるうちに。…別れは急にやってきた』
凍てつくあの日。
『すごくすごく後悔した。あの時、そんなんじゃないって、好きだからやってるんだって言えていればこんなことにはならなかったんじゃないのかって…。だから今の私は』
「最初から、自分の自分である部分をさらけ出すのを、やめた」
私の心を言葉に直してくれた透さんに頷く。
『そうすれば。…失っても傷つかないで済む。自分の本当の部分が原因で失うよりはずっといい』
透さんが私の肩を抱いた。そして耳元でありがとうと呟いた。
「話してくれて嬉しい」
『…ふふ、こんなこと誰かに初めて話したかも』
爽快感と脱力感で、目元がきゅんとなる。
それを察したように、透さんはぐいっと私の肩を自分に引き寄せてその広い胸に顔を埋めさせてくれた。
「…別れたのも、それが原因?」
『え?あぁ…ううん』
顔をあげると透さんは言葉を待っていた。
このことを誰かに言うのはもっと初めてだ。これは嘘を吐いてでも、他の人に言いたくなかったことだから。
口にするにはあまりに重すぎること。
だけどこれを言わなければ一生私は透さんに最後の扉を開けられないと思った。
『…死んだんだ』
透さんが息を呑むのが分かった。
『あんなに…何があっても死なないと思ってたのに。でも、死んだ。私は最後まで、あの人に本当の気持ちを言えなかった』
透さんは暫くぼおっとしていたようで、その後私を抱きしめた。
死んだ。…死んだのだ。あの人は、本当にもういないのだ。
だけど心の雨はあがっていた。言いようのない虚無感が身体中を襲う。だけど私は一人じゃないんだ。
「……凛が、カフェでよく会うって言ってた人。どんな人?」
気を遣ってくれているのだろう。訪れた日常的な会話に少し気が楽になった。
『…メガネでインテリ、の割に意外とガタイがいい人…かな。頭が良いんだろうな、割とからかわれる』
「…そう。ねぇ凛。やっぱり、僕」
透さんが私を抱きしめる。強く強く。顔もあげられないくらいに。
「その人にちょっとヤキモチ妬いちゃうな…。だから。…あんまり会わないでほしいな」
透さんがそんなことをお願いしてくるのは珍しい。だけどこんな話の後で心が緩んでいたのだろう。特になにを考えるわけでも無く、うん、と即座に頷いた。
温かい、と初めて感じた。
心を裸にしてくっつく喜びを、私たちは覚えてしまった。
……この時私は、自分の、そして相手の心に潜む「針」を。本当の意味で理解できていなかったのに。
170706