山嵐
□とお あまり むっつ
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濃密な夜を幾日と過ごした。
お互いに全ての扉を開いた訳では無いが、前にも増してより一層透さんとの距離は近くなっていった。
透さんは私の単純な心理なんてお見通しの様だった。
全てを話してもやはりどこかで心の触れ合いを怖がってしまう私に、あまりにも優しくしてくれた。
ヤマアラシのジレンマ
その言葉は満たされた日常に紛れていつのまにか遠く彼方へ吹き飛ばされていた。
第一に透さんに「針」を感じることは無かった。そして私が透さんを想う気持ちにも「針」を感じなかった。
透さんのことを想うと胸がかぁっと温かくなって、すべての人に優しく出来るような、そんな穏やかな気持ちになれる。
その気持ちのどこに「針」など存在するというのだろうか?
「おはよう、凛」
『ん…はよう……』
透さんの部屋にももう慣れた。
目が覚めた時に、真っ先に鍛えられた分厚い胸板が飛び込んできて思わず目を逸らす。
この人の身体は非の打ちどころが無さ過ぎて心臓に悪い。
「どうしたの?」
『…透さんの。…その』
「僕が、何?」
『……身体が…かっこよすぎて』
真っ赤になりながらそう言うと透さんは高らかに笑った。そしてそのまま背を向けた私の身体を後ろから包み込む。
非力で小さな私の身体は、透さんの強靭な肉体にすっぽりと覆われてしまう。
「凛…。好き」
耳元で、低い声で、ちょっと甘えたようにそんなことを言われると、思わず回された腕を振りほどきたくなるくらい恥ずかしい気持ちに振り回される。
いつも好きと言われる度に、私もきちんと返さないとと思うのだが、いざ口にしようとするとあまりにもむず痒い気持ちが先走ってしまってそれを口に出すことができないのだ。
『………』
また、明日言えればいいか…。
心の中で透さんにゴメンねと呟きながら朝の甘い時間を終えた。
『あっつ……』
梅雨も明けると、季節はとうとう夏色に染まっていた。
日中はすっかり夏で、夜も夜で蒸し暑い。
蝉こそまだ鳴き始めていないものの、それも時間の問題だろう。
じっとりと肌を伝う汗を感じながら、久しぶりに一人で桜並木道を歩いていた。
今日は透さんは出張で大阪まで行っているらしい。ということで何日、いや何か月ぶりに透さんがいない日常を送っていた。
桜はとうの昔に散り、華やかだった木々は青い葉を大量に身に着けている。
ふと思い、久方ぶりに「あの木」の元へと向かう。
「その木」は相変わらず一本だけ異彩を放っていた。
ざらざらした木目に手を触れると、透さんと出会ったあの日のことが不意に蘇ってきた。
泣いてたら…、出できてくれたんだよね。
そして怪我をした私の手当てをしてくれた。あの頃から少しずつ、私は透さんに惹かれていった……。
煙草の味も、あの人のことも、思い出すことは少しずつなくなっていた。
あの人で溢れていた私の部屋やこの街は、もう透さんとの思い出で埋め尽くされている。
あの人の色は穏やかに少しずつ死んでいった。
もう、出会うことは無い。
もう、手を繋ぐこともなく、声を聞くこともない。
一本の長い長い、私の道で、過去から手を振るのはあの人だろう。だけど。
未来で私を待っているのはあの人じゃない。それはきっと。
「おや?随分久しぶりですね」
ぼおっとしていた私の頭上から急に声がかかってきて反射的に顔をあげる。真っ先に飛び込んできたのは見覚えのあるフワフワのピンク色の髪。
『昴さんっ!?』
「どうも」
丁度1ヶ月ぶりくらいだろうか。透さんに昴さんと会うことを強制的に止められていたわけではなかったが、それでもやはりなんとなく、あのカフェにはいかなかった。
あれは透さんからのはじめての「お願い」だったからだ。それになんとなく、昴さんが不意に醸す共犯者の雰囲気に罪悪感を感じていたからかもしれない。
「ここ最近、あのカフェに来てくれなかったので寂しかったですよ」
『う…すみません。その』
なんと言おうか少し気まずくなってしまった私に、昴さんが話しかける。
「もしかして…例の彼氏に見られてしまったとか?」
『え?いや、見られては無いですけど…最近カフェで出会った人がいるって言ったらちょっとヤキモチ妬いちゃって。…まぁ、別に』
「私と凛さんはそういうのではないのですがね」
台詞をとられてしまった。昴さんは話を続ける。
「今日は、彼は?」
『今日は出張で大阪に』
「そうでしたか。…私の家、すぐそこなんですが少し寄ってきませんか?」
『はい!?』
あまりに素っ頓狂な提案に間の抜けた声をあげると昴さんは慌てたように手を振った。
「変な意味では。ただ久しぶりに会ったので立ち話もと。それに今珍しいお酒が部屋にあるんです。一人では到底空けられないので凛さんにも手伝ってもらいたくて」
ああ…そういうことか。と思うのだがなんだかなんだか透さんがいないのをいいことに、みたいで尻込みをしてしまう。ええっと、と言葉を探すのだが昴さんは更に会話を重ねてきた。
「私と凛さんは、そういうのではないでしょう?ですから後ろめたく思うことなんてありませんよ」
「どうぞ」
『お邪魔しまぁーす…ホントに大きなお家ですね…』
「知人の家を借りているだけですがね」
結局昴さんの有無を言わさないスマイルに流されてしまって昴さんのお家にお邪魔することに。
そこは中々の豪邸で家の前で入ることに躊躇したが他人の借り物の家だと聞いてなんとかその中に入っていった。
「どうぞ、こちらです」
『へぇ、わあ…アップルバーボンですね。え、ロックで呑むんですか?』
「大丈夫ですよ。普通のバーボンに比べると甘くて飲みやすいし、アルコール度数も高くありませんから。ソーダで割ってもいいですが、最初は是非ロックでどうぞ」
昴さんからもらったグラスで乾杯をして、恐る恐るそれを口につける。一瞬癖のあるウイスキーの味が口に広まるが、その中にもどこか甘さがあって飲みやすい。アルコールが低いと言っても原液なのだ。喉がくっと熱くなる。
「どうですか?」
『濃いけど…美味しいです』
「そうでしょう?好きなだけのんでくださいね」
相変わらず昴さんとの会話は楽しい。時折ふざけたことも言い合いながら、色んな話をする。昴さんと話していると、なんだか不思議な感じがする。透さんとも違う、気持ちが落ち着く。嫌われる心配をしなくていいからかもしれない。
「ヤマアラシのジレンマのお話は?」
『ふふ、その話…本当に納得しましたよ。でも…私、きちんと透さんに話しました。昔の人のこと。どうして心と心で触れ合うことができないのか。そしたら…透さんとはすごく近くなれたんです』
「そうですか。昔の人には迷惑をかけたとおっしゃっていましたね」
『はい。あの頃は私も未熟でした。でも今は…』
オンザロックが喉を通る感触が心地いい。
『私も、変わりました。多分もう二度とあんなことは繰り返しません』
透さんに会いたい、とほんのりと酔っぱらった頭でぼんやりと考える。透さんに会いたい。後で電話をしてもいいかな。今ならはっきりと言える気がする。透さんが好き。あなたのことが好き。ずっと傍にいたい。いつも逃げてきた愛の言葉を。
『…少し酔っぱらっちゃいました。私、そろそろ』
「では凛さんは今、幸せなんですね」
『え?…ええ。幸せです』
今は自信をもって自分が幸せだと言い切ることができる。恥ずかしながら惚気るのも苦に思わない。だって私は透さんのことが好きで、幸せだから。
「凛さん、帰る前に少しこちらに」
立ち上がった私を昴さんが呼ぶ。何か…いつもと雰囲気が違う?けれど酔った頭ではそれをすぐに判断することができない。
「…知りたくはありませんか?」
『何を、ですか?』
「真実を、ですよ」
的を得ない発言。のらりくらりとはぐらかされているようで、先を急ぐように昴さんの瞳を見つめる。
「どうしてその、昔の彼は君を突き放したのか。そもそも彼は本当に死んだのでしょうか?」
『え…?』
ちょっと、待って…。
私、昴さんにあの人のことなんて話したっけ?
「彼は君をどのように思っていたのか。それらをすべて…知りたくないですか?」
昴さんの声は落ち着いていた。無表情にも感じる。心臓が、ゆっくりと打ち出している。何か…何か、私の世界を全て変えてしまうような、そんな予感がするようで。
『………』
だめ。その先は、だめ。
頭の中で警告をする自分の声が聞こえる。なのに声を出すことができない。
昴さんが首に巻いていたストールを外した。見慣れないチョーカーが首に巻き付いているのが分かる。
戻れなくなる。戻れなくなる。昴さんがそのチョーカーの、何かのボタンを押す音が、無機質に部屋に響いた。
「……凛」
その声を聞いた瞬間、身体中に電流が走ったかのようにびりびりと震えた。
もう、出会うことは無い。
もう、手を繋ぐこともなく、声を聞くこともない。
そう、思っていたはずなのに。
『う、そ。うそ。うそでしょ…秀…っ』
その声の主は、紛れもなくあの人。赤井秀一だったのだ。
170714