山嵐

□とお あまり ななつ
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身体の底が、無意識に震えていた。
目の前で起こったことが、その事実が。間違いであると、否定しようと喉の奥から何かの思いがせりあがってくるのだが、上手くそれは音にならない。


『…ゅ……、し……』


嘘。嘘。嘘。だよ、ね。
きっと気のせいなんだ。ああ、忘れたつもりでいたのに。やっぱりどこかでまだあの人のことを忘れられていないのかも。
だって、そんなことある訳無い。ある訳無いんだ。だってもう、あの人はいないから。死んでしまったから。忘れもしないあの冬の日に、みぞれ交じりの雪と共にその訃報を訪れたあの瞬間を私は鮮明に覚えている。

寒気がしてきた。酔いがまわってきたんだ。じゃなきゃこんなに頭がふらふらして、喉の奥が熱くなって、どうしようもない感情に苛まれるわけがない。


けれども先程の声が、そして今まで昴さんと秀一との重なっている部分がすべての事実を、過去を否定していた。秀一は死んでいない。生きてる。そして何らかの理由があって沖矢昴として生きているのだ。ジョディさんのあの雪の日の訃報だって演技だったんだ。いや、もしかしたらジョディさんだって知らされていないのかもしれない。


逃げなきゃ。


回らない頭で唯一思ったのはその一言だけだった。頭は現実に追いついていないが一つだけ分かったこと。何かが間違っている。この空間は異常なのだ。こんなことがある訳がない。あっていい筈がない。
ふらつく足取りで玄関へ向かおうとする。逃げなきゃ。ここにいちゃいけない。逃げろ。全てがめちゃくちゃになってしまう前に。


「凛」


名前を呼ばれた。一瞬意識が遠くなりそうになる。


「お前は今、幸せか?」


神の啓示にも似た問いかけ。ふと思い浮かぶ透さんの顔。幸せだ、と言いたいのに、確かに思っているはずなのに、喉の奥がカラカラで声を出すことができない。


「…お前に幸せを、邪魔するつもりはない。だが、真実を知りたくなったらいつでもここにこい」


まるで映画のワンシーンみたい、とどこか冷静な自分が呟いた。ふらふらとした足取りでこの豪邸を出ていく。足が地を踏みしめている感覚が無い。亡霊のように桜の木の元へと向かう。帰らなきゃ。全ての始まりの場所に。そしてできることなら全てを無に帰してしまいたい。


どこから、間違った?


大木の元へと向かっても、気持ちは混乱したままだった。もたれ掛って座り、濃紺とした空を見上げる。

息が荒いのが脳みそまで響いていた。


秀一が死んだ。とても辛くて頭がおかしくなりそうで、生きながら死んでいた日々を過ごしていた。
毎日のように秀一に懺悔をした。幾度謝ろうとも秀一は還ってこない。分かっていたけれど謝らずにはいられなかった。
春がきて、透さんが現れた。透さんは私を愛してくれるといった。私は透さんを愛そうと思った。だけどそのことに胡坐をかいたり、「愛されてる!」なんて調子にのったこともなかった。

なのに、どうしてこうなった?


生ぬるい風が頬を触る。煙草が吸いたいと不意に思う。落ち着かないと。頭が混乱している。全部悪い夢だったらいいのに。目が覚めたらきっと可笑しな夢だったって笑ってる。隣にいるのは。…その時隣にいるのは…。いて欲しいのは。


ポケットに入れていた携帯が静寂を破って鳴り響いた。ほとんど無意識にそれを取り出すと、映っていた「透さん」の文字にそこでやっと我に返った。


「もしもし、遅くなってごめんよ。やっと仕事が落ち着いてね」


『……ぁ、……。…お、つかれさま』


「…?どうかした?何かあった?」


背中に突き刺さるような現実。透さんの声を聞いた瞬間、訳が分からない想いが急に込み上げてきてぽろぽろと涙が溢れだした。


「凛?どうしたの!?何が…」


『…めん、ごめん、なさい…。…寝てた、から』


咄嗟に嘘を吐いた。秀一のことは、まだ透さんには到底話せない。


「ああ、びっくりした…。ごめんよ、起こしてしまって」


『ううん…、…ごめんなさい…』


私、どうして透さんにこんなにも謝っているんだろう…。
秀一に出会ってしまったから?考えてしまったから?そこで今心に溢れているのが、何故だか透さんに対する罪悪感だと今気が付いた。



「どうして凛が謝るんだい?じゃ、切るね。起こしてごめん。でも、声が聞けて嬉しかった」


“私も嬉しい”


『ん…』


“切らないで。寝てたなんて嘘。もう少し話していたいな”


「おやすみ、良い夢を」


“今日ね、やっぱり透さんがいないと寂しいって思ったの。…え?…珍しいでしょ。…透さん。……好き。…ふふ。今ね、出会った桜の木のところにいるよ…”


『……おやすみなさい』


相変わらず風が生温い。濡れた頬が微かに風にそよいだ。涙が渇く。汗をかいていた波がすっと引いていく。


……秀一が、好きだった。
……秀一は、死んだ。
……透さんが、私を好きだと言ってくれた。
……私は、透さんを好きになった。

……秀一が、現れた…。


………。


……どうして?


何よりも、秀一が現れて揺らいでしまっている自分が情けなかった。
だって死んだと思っていたから。もう秀一は現れないと思っていたから。
…私は…どうして透さんを好きになったんだろう?もし秀一が生きてて、それで私に別れを告げていたなら、私は透さんをどう受け入れていたんだろう。

私は秀一がいないから透さんを愛していたんだろうか。



……秀一は引き留めなかった。
私の幸せを邪魔しないとも。

どうしてその一言に、未だ胸が締め付けられるんだろう?私は願ってる。目をそらしちゃいけない。いっそのこと秀一が生きているのなら、強引に私を連れ出してほしい。

…そうだ、これが私の本当の心。
見た目はいくら秀一のことを忘れようとしていても結局はどこかで秀一が私を連れ出してくれることを願っていたんだ。前を後ろも分からなくなるくらい愛されることを。もう一度「好きだ」と言ってくれることを。その男らしい手で私の頭を、身体を、心を慈しむように撫で上げてくれることを。



吹き上げる風は、春の匂いも、冬の匂いもしなかった。
あるのは夏の匂い。心に汗をかいてしまうような、むさ苦しい夏の匂い。

大木を伝いながら、なんとか足に力をいれて立ち上がる。
そして私は歩みを始めた。光のない1本の私の長い長い道を。




170724

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