山嵐
□とお あまり ここのつ
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どくん、どくんと心臓が深く、ゆっくりと唸り声をあげている。
大仰な門を潜り抜け、大きな扉の前に立つと流石にインターホンを押すのに逡巡した。
あと一歩踏み出すための右手が震えていた。
持ち上げた右手を、左手で包んだ。
……。…大丈夫。一人で大丈夫。
ただ真実を聞いて、せいせいした。って言って帰るだけ。怖いことなんてない。私が傷つく必要もない。
大丈夫…。大丈夫。
幾度となくその言葉を心の中で唱えていると少しずつ鼓動が収まっていくのを感じる。
それはまるでおまじない。私を安心させる魔法の言葉。
すんと大きく深呼吸をして腹をくくった。大丈夫。最後にもう一度だけその言葉を呟いてインターホンへと手を伸ばす。しかしその重い扉は私がボタンを押す前にがちゃりと音をたてて開いた。
あまりにも唐突な出来事に心臓が喉から飛び出るかと思った。
「来たな」
『……っ!…びっ、…っくりしたぁ…っ。インターホン鳴らす前に出てこないでよ…』
自分でも滑稽に思えるほど動揺している私を見て秀一はふっと鼻で笑った。その仕草がやけに懐かしく思えて緊張していた心が緩む。そこでやっと気持ちが落ち着いて秀一の顔を見ることができた。どうやら今日は変装もしておらず「赤井秀一」らしい。
『……変装、してないの?』
「ああ、今日は俺が凛と話したいからな。だが人目に触れると拙い。早く中に」
ついこの間も通されたダイニングはなんだか違う風景のように見えた。テーブルの上には変わらずお酒と煙草がのっていた。そういえばなんだか甘い音楽がどことなく漂っている。クラシックだろうか。会話を邪魔しない距離感が私を安心させる。
「とりあえず座れ。夜は長い」
『いい。立ったままで。…少し、話を聞きに来ただけだから』
「つれないな。久しぶりに会ったってのに。何もしやしないさ。ほら」
私が何も言わずとも、勝手に二つのグラスにお酒を注ぎだす。勝手気ままなところは本当に変わってない。きっと座るまで話し始めてくれないんだろうと、仕方なく隣に腰を下ろす。もちろん十分に距離をとって。
「ほら。再会に乾杯」
『……ん』
触れるか触れないか程度のささやかな乾杯。昔の男と乾杯をしているだなんて、透さん嫌だろうな…。のっぺりと顔を出した罪悪感を誤魔化すように一口目のお酒を喉の奥に流し込んだ。
『ん、熱…。でも美味しい。この間のバーボンと違ってちょっと苦いね…』
「これはライ酒。メリーランドスタイルだからのみやすい方だろう?大人の味だ」
『ふうん…相変わらずお酒ばっかりのんでるのね』
「そうか?四六時中のんでる訳でも無いぞ?」
『四六時中のんでるでしょ…煙草の本数も減ってないし。もう、本当に不摂生なんだから。顔色も悪いしちゃんと寝てるの?』
秀一の久しぶりの瞳と目が合って思わず逸らした。秀一は喉の奥で笑った。
「お前も変わらないな。そのお節介」
『お、お節介とは失礼な…!!私はただ秀一が心配な……』
グラスを持った手に力が入る。クラシックが流れていて助かった。沈黙をいい具合に埋めてくれる。
『……心配だった…だけ。……』
この曲、なんだったっけ。…「カノン」だっけ?繰り返し繰り返し、同じ旋律が後から追いかけてくる…。
逃げられない。どこまでも追いかけてくるような。
「…すまなかった」
懺悔でもするような声に、秀一の方から身体ごと背を向ける。なんとなく顔を、姿を見ていられない。今の秀一の姿を見ているとなんだか蜃気楼でも見ているようなそんな居心地の悪い気分になる。
『……何が?』
今更何に謝るというのだろう?あの時愛せなくて?それとも傷つけて?…そんなの自分勝手な自己満だ。過去から今にかけての私がみじめになるだけだ。
「俺が悪い。俺があの時…」
『やめて』
聞きたくない。お酒を反射的に喉に流し込む。
『…聞きたくない。そんなの狡いよ。今更…自分が楽になりたいだけの言葉なんて』
「分かってる。…結果的に俺は凛を傷つけた」
『だから!!』
ああもう。どうして私は秀一の前だとこんなにもすぐ感情的になってしまうんだろう。感情がむき出しになって、我儘になって、…こんなの何も変わってない。透さんに出会って変わったと思ってた、けれど結局人なんて根本はなかなか変わらないんだ。
『…そういうの。そういうの…すごくイライラする。なんなの。…傷つけた、って。どうしてそんな上から目線で話ができるの?悪いって思うんならしないでよ。後からそんなこと言われたって…。…みじめになるだけ…』
そんなこと言われたって、もう傷ついた過去は還ってこないのだから。
「…分かってくれとは言わない。だが、…ひとつだけ聞いてくれ。最後まで」
『………』
なるべく深く、ゆっくりと深呼吸をするように自分に言い聞かせた。過去が巻き戻る。今の旋律と重なって、最初の旋律がゆっくりと静かに奏でだす。
「…俺はどうしても、一度死ななければならなかった。それも殆ど完璧に近い死だ。実際あの時俺の死が偽装だと知っていたのは3人だけだった。FBIはおろか、家族にですら俺は本当のことを話すわけにはいかなかった」
寒い、寒い冬の日がやってくる。真実を明かされることに、指先が震えていた。
「勿論…お前にも。実際俺の仲間は何人か本当に俺の死が偽装ではないか、それを調べるために探られていた。それを乗り切るためには演技ではない本当の反応をしてもらう必要があったんだ」
…分かっていたような。だけど。仕事なんだけど。…私はそのふるいにかけられた。
「俺は凛を危険な目に合わせたくなかった」
ずるい。ずるい。ずるい。
自分だけそんな、良いように逃げようとするなんて。そんな聞こえの良い言葉で、すべてを丸く収めようとするなんて。
『もう、いい…。仕方なかったって言いたいんでしょ?愛してた…好きだった。大切だった。だけど。…そんなの今更聞きたくないし信じられない。……』
本当は。…私は。その言葉を。
「…だが、俺はお前には話そうとしたんだ。一度、沖矢昴の姿で近づいてから」
『…え?』
「俺は実際何度かあの桜の木の元へ行っていた。お前は気づかず行ってしまったこともあったが…」
『…………』
そういえば何度か、人影を見ていたかもしれない。
尤も、誰だろうかと思案することも無かったが。
『なん、で…』
「言っただろう?俺はあの場所に戻ってくるって。何度だって。どうあったって。だから本当はあの場所で出会って、全てを話しもう一度やり直すつもりだった。…会った頃にはもうあの男に引きずり込まれていたが」
『うそ…。嘘でしょ…』
それなら私の。あの苦しかった日々はなんだったっていうのだろうか。耐え切れなくなって秀一の方へ振り向いた。そこには紛れもない赤井秀一の姿があった。
「…すまなかった」
気が付けば泣いていた。何かは分からない。だけど何かが心の底からあふれ出していた。
謝ってくれた。私の目を見て、真っ直ぐと。ああ、私、本当は。
「それから、愛してた。本当に。…今も、だ。愛してる。…今更と言われても仕方がないな」
『……いよ』
「ん?」
『遅いよ…ばか……』
私は、あの時に…あの瞬間にこの言葉を聞きたかったんだ。私の前から秀一が消える前に。そして秀一の上から無理矢理に他の色を染めてしまう前に。
耳の底で、クラシックが聞こえる。
これは、「カノン」。絶え間なく同じ旋律を繰り返す。
幾度となく繰り返す夜は終わらない。
ライに浸かった氷だけが、カランと乾いた音を立てて湿っぽい人間たちを嘲笑っていた。
170811