山嵐

□はたち
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自分の息が、身体が、震えているのが分かった。
指先は落ち着きなくひっきりなしにグラスの水滴を拭っている。
一方で、頭の隅ではそれを冷静に眺めている自分もいて動き回る指先をなんだか別の生き物みたいとぼんやりと考えていた。


「凛」


名前を呼ばれただけで情けないほど動揺してしまった。
身体中が硬直して動くことが出来なければ声を出すこともままならない。


「…触れてもいいか?」


はい、ともいいえ、とも言えず、ただ黙りこくる。今口を開けばとんでもない魔物が喉の奥から込み上げてきそうだった。
秀一は否定しないことを肯定と受け取ったらしかった。す、と秀一の懐かしい手が私の頬の、涙を拭った。


「泣くな。…悪かった」


『あ……』


……秀一の、手だ。

再び涙が溢れ出る。

秀一の体温。感触。匂い。
私より少し冷めた熱。ごつごつとした、男らしい皮膚。煙草の匂いの移った指。

ああ、秀一だ。秀一の手だ…。
私の元から消えてしまった、秀一の手だ。

ふと下ろした視線をあげると、目の前には昔と変わらない吸い込まれそうな瞳。


「お前を止めるような無粋な真似はしない。…幸せになってくれだなんて、言えるほど大人でも無いが」


叱られてる子どものように声が小さくなる秀一を、愛しいと思ってしまった。それを思うと同時に色んな想いが込み上げてきて、乾いた笑みが肺の奥からせりあがってきた。


『…ふふっ、あはは…!何よ、それ…』


秀一は何も言わず、唯続きを待っていた。今まで隠してきた気持ちを今は言葉にしてぶつけたい気分だった。


『…ほんと、勝手よね。自分だけそんな風に…良いように立ち振る舞って。…私が秀一を失ってからどんなに苦しんだか、分かる?』


堰を切ったように止まらない。けれど酔いもはいっているからか、今はそれでいいと思えた。


『毎日朝が来るたびに辛かった。新しい青い空を見るたびに取り残されたような気持ちになった。…マンションの自室から本気で飛び降りようと思ったことだってあった』


ああ、私どうしてこんな心の内を曝け出しているんだろう。今までこんなこと、誰にだって言えたことは無かったのに。…勿論、過去の秀一にも。


『煙草…。吸ってるときだけは…少し寂しさは和らいだけど、ただの一時しのぎ…。道端で秀一の被ってたニット帽を見るだけで心臓がばくばくして、嫌な汗をかいたわ…。ほんと、いつまでこうなんだろって、思いながら…』


オンザロックを一息に飲み干す。
喉の奥と、頭の奥が熱くなる。


『ふふ…っ、だから、頑張って忘れようとしたのよ?毎日毎日、呪文のように秀一はいない、秀一は死んだ、って言い聞かせながら。…時間はかかったけど、少しずつ、少しずつ…忘れていけたような気がしたのに…』


秀一の手が、もう一度私の頬に触れた。その手を両手でとって、力の無い手で握ってみる。酔いが回る。秀一がここにいるという事実に、また涙が溢れ出る。


『…ここにいるんだね。…ははっ、可笑しいな…。ふふっ、あんなに探しても見つからなかったのに…秀一の手がここにある…』


ソファーの背もたれに身体を預ける。高い天井を仰ぐと幾分気持ちが楽に解き放たれたような気がする。
視界がぼやけるのは涙のせいか、お酒のせいか。
どちらにせよ、今は酷く気分が良い。乾いた笑みが止まらない。


『……あはは!あー、おっかしぃ…。…しあわせ。やっぱり、すき。……だいすき。…………なんで現れちゃうかなぁ……』


腕で目元を覆っても、やっぱり涙は隠せなかった。
いつのまにか笑みは止まっていた。頭の中がぐるぐるする。足元から言いようのない何かがせりあがってくる。


『ふ…っ…ぅ、…っ…んっ、…ッ』


それは涙となって、飽きることなく頬を滑り落ちる。今更こんなことを言っているのは私の方だ。…思えば心を隠し、本当の自分を、気持ちを相手にぶつけなかったのは私のほうだったのかもしれない。


「……凛」


顔をそちらにむける気力もない。いつの間にかクラシックが止まっていることに気が付く。広い部屋に私の鼻をすする音だけが、ただただ木霊している。


「………」


秀一が私の腕を掴み、顔の上からそれを下ろした。秀一の顔が思ったより間近にあって、遅れて動揺する。


『……しゅ、』


「黙ってろ」


そう言われた数瞬後には私の唇は秀一によって奪われていた。
唇を重ね合わせるだけの軽いキスが、今は何よりも永く、重々しい大切なものに感じられた。


いけないことをしている。こんなのは間違っている。
透さんの顔が一瞬浮かんだような、気がした。
けれど次々に襲い掛かってくるのは今までの思い出と、苦しかった日々。
再三な涙が頬を流れるのを感じる。

全ての現実から逃れるように、ゆるく瞼を降ろす。
そして私は、分かっていながらも秀一の背中に手をまわした。




170817

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