山嵐

□はたち あまり ひとつ
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『ッ!?!』


ふと脳と瞳が朝を感じ、反射的に身体を起こすと目に飛び込んだのは見慣れた自分の部屋だった。
一瞬の間ぼおっとして、次いで襲ってくるのは罪悪感。
刹那夢かと思ったが、髪の毛から香る煙草の匂いが昨日の事が夢ではないと物語っていた。


『……うー……』


この感じはどうやら酔い潰れてしまったらしかった。自分の家にはどうやって帰ったのだろうか。秀一に送ってもらったのだろうか。そういえばそんな覚えが記憶の断片にあるような、無いような気もする。とりあえず秀一の家に泊まらなくて良かった。

……良かった、訳が無い。


ふと我に返り叫びだしたいような気持ちになる。
一体私は何をしてるんだろう。いくら動揺していたとはいえ、秀一と……キス…するなんて。

懐かしい味が不意に唇に蘇る。少し苦い、煙草の味がするキス。無意識に指で唇をなぞる。
夢じゃない。あんなに待ち焦がれていた、もう一度と願っていたことが現実に起こってしまった。
それはなんとも奇妙な感覚だった。まるで自分が異世界にでも紛れ込んでしまったかのような微かな違和感。ありえないことが起きてしまったのだ。死んだ人が生き返るだなんて。

…実際は秀一が死んでいたわけではないのだが。だけど私に、私たちにとっては死んでしまったのと同じだ。

秀一に会いたいと強く願っていながら、心のどこかで分かっていた。そんなことは起こりえないことであると。だから何も考えず、秀一のことを想うことができた。「もし本当にそうなったら」のことなんて考えてもみなかった。
「会いたい」と心に想うだけで充分だったのに。


唐突に携帯が鳴り響く。動揺したままそれに出ると、変わらぬ優しい声が聞こえて胸の奥が緩やかに震えた。


「もしもし、体調は大丈夫かい?」


『…透さん』


大切に、大好きと感じるこの人の声をこんなにも感じるのに、応えられていない私の心。
透さんがどこまでも優しいのが、逆に今は酷く重荷となっていた。もしも昨日の事を透さんに話したらこの人は私をどう思うんだろう?穏やかな笑みを浮かべて私に失望するのだろうか。いっその事バレてしまって、怒ってくれたらいいのにと思う私は可笑しいだろうか。


「今日処分しなくちゃいけないケーキが余ってて持って帰ってくれってマスターが言うんだ。今から凛の家に行ってもいいかい?」


『………』


本当の気持ちを言うと、どんな顔をして会えばいいのかも分からなかったし、会いたくないというのが本心だった。だけどここで断ってしまったらもう二度と透さんに顔向けできなくなると感じた。

だから。


『…うん。大丈夫。…透さんに会いたいな』


電話越しでも透さんが喜んでいるのが分かった。予想を裏切らない、嬉々を含んだ声ですぐに行くよ、と返事が飛ぶように返ってくる。


嘘を吐いた。


ぴ、と電話を切ってからベッドの上で大きな溜息を吐く。会いたいだって?そんなの…よくもそんな嘘を。
気分を変えようとシャワーを浴びに行く。嘘を吐くのって、こんなにも簡単だったんだ。ちょこっと頭で考えていることと、口から飛び出す言葉を変えるだけ。話し言葉として、一息に言ってしまえば動揺することもない。

今までこんなことしたことなかったのに。どちらかというと、会いたいとか、好きとか、本当に伝えたいことこそ恥ずかしくなって言えなかったのに。


透さんが部屋に来て、なるべくいつもの自分でいるように努めた。ケーキと紅茶も淹れて、飽きない話をいくつも聞いた。いつも通りの筈なのに、砂を噛むような違和感を感じる。まるで自分ではない自分が話しているかのような。


「凛」


『ん?……ん』


顔を寄せてきた透さんにキスをされる。それと同時に昨日の事が蘇ってくる。透さんは空になった私のマグカップを取り上げて台所へ向かった。


…秀一は、どうして私にキスをしたんだろう。

自分の身体を自分の腕で抱いて、小さくなると少しだけ心が安心する。ふうと吐いた溜息がやたらと熱を含んでいて慌てて首を横に振った。

駄目、駄目。秀一のことを考えちゃ、駄目。今私の傍にいるのは透さんなんだもの。
なのにそう思おうとすればするほど、秀一の声が、匂いが鮮明に襲い掛かってくる。忘れるなと耳元で何度も何度も囁いてくる。


「どうしたの?」


台所から戻ってきた透さんが不思議そうに声をかけた。透さんの顔が見れなくて、誤魔化すようにその胸に飛び込む。透さんは私の行動を甘えたいのだと解釈したらしかった。柔らかな手つきで私の頭を撫でた。

それなのに、透さんが優しければ優しい程心が冷たくなっていく。昨日の事が首を絞めてくる。こんな優しい人を私は騙している。言えないことを抱えている。話してしまいたい。そして怒って怒鳴りつけて、どこへもいけないように透さんの元へと縛り付けて欲しい。…なんて。


『透さん。好き……』


どうしてそんなことを口走ったのか、自分でも分からない。心に浮かんだ罪悪感を消して、自分だけでも楽になりたかったのかもしれない。
透さんは一瞬驚いたような素振りをして、その後本当に喜んだ様子で短く僕も、と返した。心が鈍く痛んだのには気が付かないふりをした。

…これで、いいんだ。こうすれば透さんだって嬉しいだろうし、誰も傷つかない。…心の中なんてどうせ誰にも分かんないんだから…。

あんなにどうしても言えなかった「好き」の言葉が借り物のように感じる。心のない言葉はただの物体だ。意味も無く、ふわふわとそこを漂うだけ。
いや…心のない言葉なんかじゃない。心はある。透さんのことが好き。…嘘じゃない。本心だ。

もう、考えるのが煩わしい。これでいいんだ。透さんだって喜んでるんだから、これでいいんだ……。


耳の奥で、クラシックが鳴り響いていた。なんだっけ?昨日、あんなに聞いてたのに。なんて題名だったっけ…。
その旋律を乱すような透さんの鼓動を、少しだけ耳障りだと思ってしまった。



170906

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