山嵐
□はたち あまり ふたつ
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私の世界は、再び不穏に満ちた平和が訪れた。
透さんといる時は、至って平和そのものだった。大きな幸せの前では秀一の存在は殆ど私に干渉してこなかったし、透さんに秀一を重ねたりすることも無かった。
問題は一人になった、その瞬間からのことだ。透さんと離れた瞬間、麻薬のようなそれは体中を蝕んで、私を陥れていく。
ふたりでいるときは、こんなにも幸せになれるのに。
なのにどうして…独りになった瞬間に秀一の存在がこんなにも大きいことに気が付くんだろう。
いくら考えないようにしてたって、ひとりの時に考えてしまうのはいつだって秀一のことだった。これまでのこと。ではなく、あの日キスをしてしまった、あの瞬間のこと…。
『……もしもし』
気が付けば、私は秀一に電話をしていた。もう一度会いたいと心のどこかが願っていた。一方でそんな自分を馬鹿じゃないのと鼻で笑い飛ばしている自分もいた。
カフェでと約束をして、それを待っている間の私は酷くおどおどしてさぞみっともなかっただろう。
本当は自分が秀一に会いたいのかどうかすら、はっきりと分かっていなかった。
寂しい、とか思い出したりとか、そういうのは確かにあるのだけれどそれは本当に「会いたい」に繋がっているのだろうか?
カフェに来た秀一は「赤井秀一」ではなく「沖矢昴」だった。冷静に考えれば分かることだったのだがなんとなく赤井秀一が来ることを想像していたので安堵と落胆が入り混じった溜息が軽く出た。
「珍しいですね、貴女から私に連絡してくるなんて」
『…………』
呼び出したものの、何を話せばいいのか分からず黙り込んでいる私に秀一が話しかけた。けれどそれにすらなんと返事をすれば良いのか分からない。
ところで秀一の姿を見た瞬間から溢れ出たこの心のモヤモヤは一体なんだろう?心の中に霧がかかっているような、先の長い真っ暗なトンネルを覗いてしまったかのような、不安で重く苦しい、奇妙な感覚。
話さない私を見かねてか、秀一はとりとめのない話をした。本当にどうでもいいような世間話で、私も生返事しかしなかったのを覚えている。そのくらいそれは、どうでもいいやりとりだった。
…違う。
こんなことのために秀一を呼び出したんじゃない。
こんなありきたりな、唯の友達のような、そんな…。
聞かなくちゃ。どうして、どうしてあんなキスを。
『…ねぇ、秀い……』
秀一の手が、テーブルの上に置いていた私の手を強く握った。微かに痛みすら走るほど強く。反射的に秀一の顔を見ると、怒っているのではないかと思う程硬い表情をしていて緊張が走った。
何事かと思案したのも束の間、すぐにその原因を思い当たり慌てて言葉を言い直す。
『…昴さん』
秀一の硬い表情が緩み、ほっと安心する。重ねられていた手が少し熱い。喉まで出かけていた言葉がたちまちお腹の底へ引っ込んだ。
再び始まる沈黙。話したいことは確かにあったのに、上手く言葉が出てこない。言葉ひとつひとつに鉛でもついているようだ。口から出ようとしても重苦しくてつっかえてしまう。
「どうかしましたか?何か…」
言いたいことが?と目で促してくる。もう言葉にもならない。ふ、と軽く溜息をつくと少し気分がマシになった。
『…ん、やっぱ、いい。今日はいいや。急に呼び出してゴメン』
残りのコーヒーを飲み干して席を立つ。秀一は依然座ったままで、不思議そうに私を見ていた。
『…また連絡する。今日はごめんね。…じゃ』
「待て、おい……」
秀一は何か言いたそうな目をしていたが追いかけてはこなかった。足早にカフェを立ち去って、桜の木の下へ向かう。もう春の名残も無い寂しげな木はそれでも力強く白い空に向かっていた。
…なんだか。拍子抜け、みたいな。
不満を含んだ溜息が漏れた。…いや、本当は分かってた。「昴さん」を呼んだあの瞬間に、どうしてこんな苦しい気持ちになっていたのか。だって今日のは。今日の秀一はまるで。
…まるで、普通だった。今まで二人が付き合ってきたことも、この間のキスも、何もなかったみたいに。ただ、「沖矢昴」という人間がいて、その人は偶然出会った「私」を軽く話の合う人だと認識していて、ただ、それだけだった。
分かっていた。自分の中の浅ましい感情を。醜い感情を。目を逸らしきれない私の中の黒い感情。
…私は、秀一の特別だと。
心のどこかで、そう思ってた。
『……痛』
強く握られた手が鈍く痛む。痛い。…痛い。
手が、心臓が。秀一の中で私がただの人であることが、…こんなにも痛いんだ。
特別になりたい。特別でありたい。私だけを見て欲しい。私が秀一に対してそうであったように。
『…何も変わってないな』
乾いた声でそう呟いた。携帯を見ると、透さんから暇ならお家に来てよとのメッセージが入っている。何故か溜息を吐きたくなる。このままでいいのだろうかとどこからともなく聞こえてきた。良い筈がない。でも、じゃあ…どうすれば。
重い気持ちで透さんの家へと歩いた。冷めた風が頬を撫でる。もうすぐ冬がやってくる。寒い寒い冬のことを考えると、ふっと何故か急に心細くなった。
171020