山嵐
□はたち あまり よっつ
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次の日の朝は静かに、少しだけひんやりと空気が冷えていた。
懺悔をしながら朝を迎えたところで何か状況が変わる訳では無い。鈍い痛みが未だ胸中に残っている。
身体を起こし、ベッドに座って首を垂れて項垂れる。スマホを見ても透さんからの連絡がくることはない。もう、二度とこないのかもしれない。そんな思いが頭を過った瞬間、自分の失ったものの大きさを初めてその身に感じた。
怖い。
いつも当たり前に傍にあった。その幸せを当たり前のように享受していた。
それが突然消えた。これが怖かったから、失うのが怖かったから散々自分に言い聞かせていたのに。…もう誰かをあんな風に愛したりしないって。
だけどとっくに手遅れだったのだ。私は怯えながらいつの間にか透さんを愛していた。そしてまた失うまでその大切さにも気づけず、慣れた幸せに傲慢になってまた大切な人を傷つけ、失ってしまった。
部屋にいるとどうしようもない気持ちで部屋が埋め尽くされて息苦しくなる。昼は少しは暖かいのだろうが今はまだ少し肌寒い。薄いガウンを羽織って部屋を飛び出し、近くの公園に駆け込んだ。
朝の公園には殆ど人がいなかった。たまにジョギングする人や犬の散歩をする人が通る以外は静かなものだ。少し褪せた緑色の葉をつけた木が静かに揺れている。春色に満ちた風はもう吹いていない。今吹くのは寂しさを含んだ透明な風。世界というのは何時だって変わらない筈なのに、季節によってこんなにも顔色を変えるのかと不思議な気持ちになる。
公園のベンチに腰をかける。指先は少し冷えるが好い気候だ。さわさわと緑の揺れる音が静かに木霊している。少しずつ心が落ち着いてくる。
落ち着いたところで、深い深いため息が肺の奥底から出た。想い出のひとつひとつが色を浮かべながら漂い始める。何時から、何がどうなったんだっけ?始まりは風がやけに温かかったあの春の日か…。
透き通った風の中に、春の風を垣間見た気がした。それを感じた瞬間、瞬く間に私の記憶は始まりの日へと私を誘った。
できるのなら、あの日に戻りたい。
モノクロの世界に透さんの色が芽生えたあの日。
桃色。緑色。黄緑色。水色。なにもかもが鮮やかに染まったあの日。
大丈夫ですか。
たった一言。たった一人。私を助け出してくれた言葉と人。
温かい風。花の匂い。右手の薬指の怪我。心地よい、同じ時間の共有。
ああ、どうして忘れていたんだろう。この春初めのような温かくて優しい気持ち。何時の間に私の心は春を忘れ、花を枯らしてしまったのだろうか。
あの日に戻りたい。戻ってもう一度やり直したい。
だけど。
そんなことできる訳ないと思うと同時に別の思いも浮かんでくる。だけど、それに、戻ったところでどうだろう。戻ったところで私は結局私なのだ。どうせどこかで綻びが生じてしまう気がする。私は所詮その程度の女なのだから。
「お姉さんなにしてるの?」
突然小さな女の子の声が聞こえてきて驚いたはずなのだが、身体は上手く反応しなかった。ゆっくりと視線を下に向ける。ああそういえば公園にいたんだっけと漸く自覚した。
「コナン君達と遊ぶんだけど、少し早く来すぎちゃった」
その女の子はまるで光だった。私とは違う、希望にあふれた小さな女の子。純粋で可愛らしい顔をしている。何も知らない、これからすべてが始まる女の子。
「…何か嫌なことされたの?」
『え?』
「だってお姉さん…泣いてる…」
そっと自分の頬に触れると濡れていた。いつから泣いていたんだろう。世界の時間と私の時間が酷くズレている。ああまだ私は公園にいたのか。
もう涙を拭ってくれる人はいない。自分の涙は自分で拭わなければならない。身体が少しずつ現実に戻ってくる。座り直して女の子の方を見た。
『大丈夫よ。ありがとう』
「本当?隣に座ってもいい?」
『どうぞ、お名前は?』
「歩美!お姉さんは?」
『凛よ、こんにちは、歩美ちゃん』
彼女、歩美ちゃんは無邪気な顔で私の隣に座ってみせた。まるで何も知らない女の子。彼女もいつか何かを知って、私のような馬鹿な臆病者になるのだろうか。敵わない恋に引きずり回されて傷だらけになるのだろうか。
『ココア、飲める?』
「うん!大好き!」
『じゃあ、どうぞ。少し温くなってるかもしれないけど』
かばんからここに来るまでに買ったホットココアを取り出す。それを渡すと歩美ちゃんは本当に嬉しそうにそれを飲み始めた。あまりにも無邪気な動作に思わず頬が緩む。まるで何も知らない無防備な女の子。私はいつの間にかこの小さな女の子に昔の自分を重ねていた。
「歩美、大きくなったら凛お姉さんみたいになりたいな」
『え?』
「凛お姉さんみたいに綺麗で優しい大人の女性になりたい!」
その声は本当に無邪気だった。何も知らない声だった。冷たい風が吹くのを感じた。
『…駄目よ』
昔の私に今の自分が会えたら。私はきっとそう言っていただろう。私なんかに憧れちゃ駄目。私のようになっては駄目。誰も幸せになんかなれないんだから。
『私のようになっては駄目。大人って…歩美ちゃんが思ってるほど綺麗じゃないよ?』
そう、私だって子どもの頃は大人に憧れていた。早く大人になりたかった。大人の恋愛がしたかった。
けれど大人はそうではないことを知った。寧ろ子どもの頃の方が無邪気に誰かを好きになれた。大人になればなるほど恋愛程あやふやで不確かなものは無いと知った。
「そうなの?でも大人って綺麗な夜景を見に行ったり美味しいご飯を食べに行ったりできるんでしょ?」
『…まあね。でも、それだけじゃ…上手く行かないことの方がずっと多いわ』
こんな小さな子供に私は一体何を言っているのだというのだろう。だけど、そうだ。単純じゃない。世間体とかそれぞれの生活とか過去とか、大人になればなるほど背負うものが多すぎる。
『私は。駄目なの。…駄目なの。…好きになればなるほど、大切な人ほど傷つけてしまう。大切なの、分かってる。なのにいつもいつも。…だから傍にはいられない。いちゃいけない…』
昔の私にそう言えば、何か変わっていたのだろうか。風が吹く。冬の匂いがする。もうすぐ冬がやってくる。低い鈍色の雲を携えた長くて重苦しい冬が。
「そうなの?」
歩美ちゃんの声は、変わらず幼い真っ直ぐさを持っていた。
「好きって、そんなに難しいことかなぁ?」
雲が一瞬、途切れた気がした。
「歩美はまだ子どもだから、よく分からないけど…。うーん…、あのね、その、これは秘密なんだけど」
分厚い雲が黄色い光を纏う。切れ間から覗くのは、太陽の光か青空の光か。
「歩美はコナン君のことが好きなのッ!!」
勇気を振り絞り、真っ赤な顔で叫んだ彼女に目が点になったのも束の間、今の状況を客観的に見ることができて不意に笑いが込み上げてきた。
『ふ…ッあははははっ!!』
「わ、笑わないでお姉さん!ほ、本当なんだから…」
なんだろう、これは。もうすっかり落ち着いた歳を重ねつつある女が、初めて出会った女の子の秘め事を聞くなんて。彼女は相当勇気を振り絞ったのだろう。なんて可笑しい出来事。そしてなんて可愛らしい。
『ふふふ…っ、ごめんね…、ふふっ』
「うう…」
『…はぁ、歩美ちゃんはさ、どうしてその…コナン君?のことが好きなの?』
こんなにも大声で笑ったのは何時ぶりだろう。気持ちが清々しいのを感じる。
「うぅん…どうしてかなぁ。んー、優しくて、賢いからかなぁ。勇気もあるし。…とにかくかっこいいし、好きなの!」
分かり切っていた、純粋で真っ直ぐなこたえ。空気を思い切り吐いた。溜息とは違う換気に身体の中が入れ替わった感じがする。気持ちは既に晴れやかだった。
『ありがとう。歩美ちゃん。ありがとう…ふふっ』
心の底からその言葉が出た。気が付けば私はまた泣いていた。それと同時に笑っていた。笑い泣きに殆ど近かった。
風が吹いていた。とても温かく、秋を知らせるような風だった。緑の木々が、居心地の良い音をたてながら揺れていた。
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