山嵐

□はたち あまり いつつ
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歩美ちゃんと別れた私はいつもの大木の元へ来ていた。
そうでも無い筈なのに、随分と久しぶりに感じる。私の心はいつの間にか、この木のことを考えることすら忘れていたらしい。


『……………』


心には穏やかな風が吹いていた。何もかも否定していた先程までが嘘のようだ。とてもまっすぐで、晴れやかで、少し空虚な気持ちも混沌している。涙と共に余計な色々なものがごっそりと抜け落ちたようだ。


好きって、そんなに難しいことかなぁ?

恋愛は好きという気持ちだけではやっていけないでしょう?


歩美ちゃんの声と、自分の昔の声が重なって聞こえた。


どうして忘れていたんだろう。それはとても簡単で、単純なことだった筈なのに。頭で考えるものでは無かったのに。考えられる、理性で抑えられるものでは無かったはずなのに。

人を好きなること。

それは、ただ、「そう」なのだ。考えて分析できるものでも、数値化できるものでも、理論化できるものでも無い。人を好きになるということ。誰かを好きになり、その人を心から大切に想い、自分がされて嬉しいこと、あるいはそれ以上のことをしてあげたいと思ったり、コーヒーを啜っているふとした瞬間にその人のことを考えてみたり、触れたいとか触れて欲しいとか、傍にいたいとかいてほしいとか思ったりすること。

あなたの体温を思い出して、胸が熱くなってみたり。

柔らかな木漏れ日に思わず愛を謳ってみたくなったり。

ただ、それだけのことなのだ。難しい計算式も、統計もいらない。ただ、好きであること。それだけなのだ。


なのに私は、自分のそういった素直な感情を認めたくなかった。好きなクセに、本当は寄り添って目を見つめて、堪えきれない好きだという気持ちを言ってみたかったのに。
「こうあるべきだ」なんて誰から押し付けられたかもわからない理想を掲げて自分の気持ちを見ようとしなかった。

ヤマアラシのジレンマ。違う。大切なのは自分の「針」に向き合うことなのだ。それを理解いて、相手の針もきちんと向き合ってお互いにそれを理解し合うこと。

針というのは、相手を傷つけるためにある訳では無い、自分を守るためにあるのだから。


少し冷ややかな風が頬を撫でた。火照った肌には丁度いい。ざらざらとした木目を掌に感じる。時の流れを感じる。今よりももっと未熟だったあの日。秀一に会った日。透さんに会った日。すべては連続している。過去というポイントが存在するわけじゃない。私を遡ればそのポイントを通過するだけ。だから、過去を後悔する必要はない。その過去の通過が現在の私に繋がってるのだ。


『透さん……』


名前を呼んでみただけで、情けないくらい泣きそうになった。会いたい。今すぐに会いたい。どんな気持ちを伝えたいのか分からないけれど、とにかく今すぐ会いたかった。

あの何もなかった私に全てを与えてくれたのは紛れもない透さんなのだ。どれだけ気持ちが離れてしまっても、手遅れだとしても、もう一度会って伝えたい。愛してる。ありがとう。どれも相違ない言葉。触れたい。今すぐに、手を伸ばして、あなたのその温かい皮膚に、匂いに、髪に、気持ちに、すべてに触れたい。ああ、私。やっぱり。

私は透さんが好きだ。

何者にも邪魔することができない本当に本当の気持ち。会いたい。今すぐに。連絡をすれば会ってくれるだろうか、会ってくれないのだろうか。だけど今はとにかく…会いたい。このまま終われない。今なら恥ずかしがらずに、目を見て気持ちを伝えることができる。ただ、好きなのだと。そして、ごめんなさいの言葉を。


落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえ、風が少し変わった。私の気持ちは何秒か遅れて高鳴る。まさか、と思うまでもなくシルエットが私の前に現れた。無い筈の桜が目の前を散った。スローモーションに景色が流れる。今は――夏の終わり。桜は散ってはいない。

その姿を見た瞬間、どくんと心臓が一際大きく鳴ったのは、動揺のせいか、それとも。


「……………」


彼は、何も言わなかった。その表情は相変わらず硬く、一瞥をくれたくらいでは何を考えているのか心を読み取ることは到底できなかった。


私は深呼吸をひとつして、ぐっと拳を握りしめ、彼の名前を――秀一、の名をはっきりと呼び直した。




171210

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