山嵐

□はたち あまり ななつ
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嵐が過ぎ去った後も、なんとなくぼおっとそこに立ち尽くしていた。
きっと私の顔は涙に濡れてぐちゃぐちゃで、隈も酷くて、化粧も崩れてみっともないことになっていただろう。だけど今はどうでも良かった。綺麗に着飾る必要はない。これも大切な私の一部で、本当の気持ちなのだから。


『ふぅー…』


ひとまず大きく深呼吸。ちょっとだけ疲れちゃったな。泣くというのは意外と体力を使うものだ。そして、涙と共に流れ落ちたナニカの喪失感。心に穴がぽっかりと空く。透明に澄んだ私の心は次に一体何を映すのだろうか。
少しだけ。ほんの少しだけの寂寥と哀愁にも似た感情。仕方ない。お別れとはそういうものだから。
今日は少し特別な日だったけれど、明日からはまた眠い目をこすりながら会社に行って、この世界の歯車としてくるくると回って…たまに呑みに行ったり仕事に追われてみたり。そんなとてもくだらない、素晴らしい日常が繰り返されていく。少し遠く離れてしまったそんな平凡が今はやたらと恋しく感じられた。

もう涙は出そうにもない。一度家に帰ろうか、と足を踏み出そうとした瞬間自分ではない足音が聞こえて、流石にこんな顔を見られるのは拙いと慌てて歩みを止める。その足音は真っ直ぐこちらに近づいてくる。私の心臓は何秒か遅れてゆっくりと唸りだす。
落ち葉を、茂った草を踏み鳴らして大木の元へとやってくる。彼は。


「…大丈夫、ですか」


聞き慣れた声。なのに、随分と懐かしくも感じる優しい声。
心臓が止まるような思いがする。ぎゅっと拳を握る。振り返ることができない。


『…………』


大丈夫、と言いたいのに声が出ない。喉の奥が震える。名前を呼びたいのにそれもできない。足も動かない。情けなく指先が震えている。
怖いほど落ち着かない身体が、安心を求めて大木へと後ろ手に手を伸ばす。ちくり、と木目に触っていた左手に痛みが走る。やっと発することのできた声は、痛、というか細い声だった。


「…顔を、みせてください」


どくん、と心臓が鳴る。良いのだろうか、なんて思う前に足が動き出す。ずっと会いたかった。会って謝りたかった。伝えたかった。


「凛…」


金髪のサラサラの髪が、陽の光を浴びて薄く輝いている。
碧眼の綺麗な瞳。大好きなすべて。意図せぬままに声が漏れる。


『透、さん…』


震える左手を右手で包んで、胸の前で抱きしめる。まるでお祈りでもするように。
澄んだ青空のような綺麗な瞳。私は透さんのこの目が好きだった。どこまでも透明で、意思を持って、私のすべてを包んでくれる目。気が付けば私の後ろに居て優しく背中を支え、時には押してくれる力強い、なのに強引ではない柔らかい目が。

透さんが無言のままに私の左手をとる。そして、優しい手つきで棘を抜いてくれる。先の尖った、小さいけれど、ちくちくと私を蝕む棘。刺さったことにすら気が付かない。どこに刺さったか分からなくなるような棘。いつのまにか刺さってしまった小さな小さな針。
だけど透さんは気が付いてくれた。そしてそれを抜いてくれた。それから守ろうとしてくれた。

微かな無言の空間。どちらからか、何から話し始めるのか迷いのある空気。満たされた静寂は少しだけ心地良い。


『………。大丈夫じゃ、ないよ…』


沈黙を破ったのは私の声。絞り出したような声と共に再び涙が零れ落ちる。風が吹く。気持ちが心の底から溢れ出す。


『ごめんなさい…』


透さんのことも、秀一のことも、昴さんのことも。

出会った日のこと。デートをしたこと。煙草を吸ったこと。雨の日に私を好きと言ってくれたこと。逃げてしまった日のこと。嘘をついたこと。傷つけてしまったこと。

全部全部、言いたかったけれど、言葉にならなかった。唯一言葉になったのは、ただただ伝えたかった、ごめんなさい、の言葉。

心臓が鳴る。赦してくれる?いや…そんなことじゃない。今は。そんなこと、どうだって。

透さんは私の左手を包んだまま、その手を優しく引く。自然と私の顔も上がる。透さんはそのまま私の左手の、薬指にキスをした。怪我を治すおまじないのようにも感じた。
透さんと目が合う。右手で私の頬に触れる。温かい透さんの手が私の涙を拭う。


「凛のことが好きだ。…愛してる」


語りかけるように、確かめるように言葉を紡ぐ。


「本当は何もかも赦せる自分でいたかった。だけど…そんな聖人になれなかった。過去の人を引きずっていても、他の誰かを見ていても、僕が好きならそれでいいって思ってたのに…僕だけのものにしたかった。僕だけを見ててほしかった」


ぽっかりと空いた心に流れ込んでくる優しい色。ゆっくりと、隙間なく私の心が満たされていく。


「いつの間にか自分で決めたその約束が、自分を蝕んで…後戻りできなくなっていたんだ。凛にもぶつけて、自分でも訳が分からなくなって…」


透さんが私の左手を自分の胸に押し付けた。心臓の音が聞こえて安心する。私も透さんも生きている。生きて呼吸をしている。それぞれの想いがあって、世界があって、信念がある。だから。


「…これからももしかしたら凛を傷つけることがあるかもしれない。自分を見失うこともあるかもしれない。だけど…凛のことが好きで、大切にしたいって…本当にそう思ってる。だから…」


とくん、とくん。鼓動の音。崩れ落ちて、作り直される世界。


「この先も…僕と一緒に居てくれるかい?」


透さんの心臓の音が速くなっていた。生きているんだ。私も彼も。この世界もすべて。
それに合わせるように、私の心臓も速く打ち出した。心地の良い胸の高鳴り。
碧い瞳と目が合い、通じ合う。胸が甘く苦しくなる。だから、私は――――。






180211

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