短編
□さよならあいしたひと
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彼はいつも笑顔で私を傷つける。
気が向いた時だけふらっと私の部屋に来て、私を深く傷つけて帰る。
「また来ます」
笑顔ででていく姿に何度ため息を堪えただろうか。
ここにいてよ、なんて言えたら楽なのに。
でもあなたに嫌われるのは怖いから。
臆病で、自分の利益だけ考える狡い私。
『……っん…っは…っ』
「瑠璃…っ」
彼はいつも行為の時だけ私の名前を呼ぶ。熱っぽく私を何度も何度も求める姿はそれはそれは色っぽい。
時には優しく、時には激しく、時には意地悪に。
いつも抱かれているときは頭の隅でぼんやりと考える。
…もう、戻れない。と。
『……透はどうして私の名前を呼ぶの?』
情事の後、ベッドで少々ぐったりしながら隣にいるあなたに尋ねる。
「どうして…ですか。気持ちいいですよ、名前を呼ぶのは…」
そう言ってぎゅっと抱きしめられる。まだ熱の残っている体温が生々しい。
「…君はいつも僕の名前を呼びませんね」
『…そうかな』
とぼけてみせたけど透は気づいているに決まってる。カンの鋭い透が気付かない訳がない。
本当は呼んでみたい。私もあなたのように名前を呼んであなたを求めてみたい。
だけどそうすると抑えていた気持ちがきっと止められなくなる。この関係がいつまでも続けばいい。この残酷な幸せがいつまでも。
『透…私のこと、好き?』
「好きですよ」
身体を離してそう言ったのに、またぎゅっと胸に包み込まれる。透はいつもそうだ。私の目を見て好きって言わない。名前を呼んで、目を見て好きって言って?…でもきっとそれをしないのは透なりの優しさなんだろう。
「君は?」
君、じゃなくて名前を呼んで。
『嫌い…大嫌いだよ』
「…君はいつもそう言う」
くす、と頭上で笑う声が聞こえて安心する。
「君はいつになったら僕に好きって言ってくれるんでしょうか」
あなたが私の名前を呼んで好きって言ってくれたら好きって言ってあげる。
心の中で呟く。でも私だって分かってる。
私が好きって言えばこの関係は終わるんだと。そして透は私に好きって言わせたいんだ。…この関係を終わらせるために。
透が何を考えてるかなんて私には到底分からない。どうして透が私との関係を終わらせたいのかも分からない。仕事関係なのか、単に私に飽きただけなのか。
『透』
「なんでしょう」
顔を上げると透と目があった。好きって言って、と言うと私を抱いていた手を離し、服を着替えだす。
『もう帰るの?』
「ええ…仕事が入っているので」
さっと身だしなみを整え玄関に向かう透に後ろから手を回す。
「…どうかしましたか?」
『大好き。本当は大好き。…透』
一瞬あなたの動きが止まる。ほんの一瞬だったけど。だけどもう私は我慢できなかった。あなたが他の女を抱くところなんて想像したくなかった。
「やっと言ってくれましたね」
振り返り、にこっと微笑む。そっと額に唇をおとされた。そして振り返ることなく家を出ていく。
いつもはまた来ます、って言ってくれるのにもう言ってくれないんだね。あなたはもう此処にはこない。あとは私があなたを忘れるまで苦しめばいいだけ。
あとは、なんて、随分遠い未来のことだけど。それはあなたが最後に口づけをくれた所為。どうして口づけなんてしてくれたの?ぬくもりが寂しさを煽る。
そっと額に手を触れてみる。目の前には固く閉じられた扉。そういえば私は一度だってあなたに「さよなら」を言ったことはなかったんだよ。透は気づいていたのかな。
涙を流しながら声にならない声で呟いた。ばいばい、大嫌いだった人。
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