短編
□涙が甘い訳、ないじゃないですか
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ドクン……ドクン…
心臓が、唸るように低く、ゆっくりと鳴り響いていた。
目の前で長い銀色の髪が揺れている。
「……死んだか」
確かにこの人はそう言った。小姓とは言えど、身体の関係を持っていた女が死んだのだ。彼女が命を懸けて愛したこの男は、彼女が死んだ今、何を思っているのだろうか。
「フン……殺す手間が省けた」
目が、自分でも見開いていくのが分かった。この男は何を言っている?彼女が、どれだけ悩み、苦しみ、足掻いたのか。
頭にカーッと血が上り、真っ白になっていく。もう立場や相手のことは頭になかった。何を。この男は、何を。叫びそうになるのをこらえ、口を開く。―おまえは、なにをいっている?
だけどその言葉が口から飛び出す前に、私の腕はまたも強く引っ張られた。ぐいぐいとひっぱる腕は、部屋を飛び出し、野次馬を通り抜けていく。
『…は…っ離してくだ…さい…っ!!!』
手――秀一様の手が私の腕を強く掴み、自室へ引っ張りこまれる。勢いよく部屋に投げ出され、がちゃんと鍵を閉められる。
『や…!出して…!どいて…ください…!!私は…っ!私は!』
彼女の部屋に行こうとするが、出入口を阻まれて外に出ることができない。そう、私はあの男を問いたださなければいけないのだ。あの男が、言った意味を。彼女の死の真相を。
「行くな。お前がアイツに何を言っても無駄だ。…死ぬぞ」
『いいんです!死んだっていい!あの子が…自殺なんてするわけないっ!!だって…っ!あんな…元気になって…っ!自分らしく…なれたって…っ言って…』
頭が現実を受け止め始め、ぽろぽろと涙が溢れ出る。死んだ―――死んだ。彼女は、死んだ。
『あの男が…っ殺したに決まってる…!じゃなきゃ…っあんな…っあんなこと…っ』
震える声。止まらない想い。がくんと膝の力が抜け、その場に座り込む。床にぽたぽたと涙の跡が雨のように降り注ぐ。
「…殺したのはアイツじゃない。何故なら…アイツは銃声が聞こえた時、俺たちと一緒にいたからな…」
そんな。じゃあ…彼女は…?縋るように秀一様を見上げる。
「…恐らく、自殺で間違いないだろうな」
ぐらぐらと視界が揺れる。私は…私は彼女に…一体何を…。胸が苦しい。息が上手くできない。
『…っで、でも…っ!拳銃は…?あ…っあの子が…っそん…なの持ってる…訳…っ!』
ふと思い浮かんだ疑問。自殺じゃない、証明が欲しかった。
「数日前にジンの持っている拳銃が一丁、無くなっていたらしい。彼女が…とったんだろう」
『でも!』
最早頭はパニックだった。相手は自分の主であることも、頭には無かった。
ただ、ただ否定していたかった。彼女が自ら命をたったという事実に。
『あの…っ!あの人が!あの人がそんなことに…!気づかない訳…ないっ!!気づいてて…っワザと持たせてたに決まってる…ッ!!そんなの…そんなの……殺したのと…っ変わらない…っ!』
殺す手間が省けた。
悪魔のような囁きだった。それにあろうことか、あの男は口元に微笑さえ浮かべていたのだ。
秀一様は沈黙を守った。それは私の言ったことの肯定という意味で間違いないだろう。
暫くの間、部屋にはただ私の嗚咽だけが鳴り響いていた。涙が止まらなかった。私は一体何をしていたんだろう。どうして、あれくらいで役にたったと思ったんだろう。結局私は彼女に何もしてあげられなかったのだ。
不意に、秀一様が座り込んでいる私の傍に腰を下ろす気配を感じた。だけど、顔を上げることはできなかった。
「あの女はな…」
返事はしなかった。ただ、無言でその続きを待った。
「妊娠、してたのさ」
………え?
俯いていた顔をようやく上げることができた。………妊娠?彼女が?
「ジンとの子だ。…だが勿論、アイツがそんなことを許すはずがない。子供は堕ろすことになっていただろう。…最悪、彼女ごと殺されていた」
言葉が出なかった。だけど、そういえば…思い当たる節が無かった訳ではない。体調が悪かったのも事実。また、その割に食欲があったのも…辻褄が合う。
「彼女は自分に子がいることを知っていたんだろうな。そして、彼女にとって、子供を堕ろすことは死と同義だった。子供だけを死なせるのは、彼女にとって…死よりも苦しいものだったんだろう。…お前の、自分らしくなれた、の言葉で…やっとピンときたよ」
自分らしく…。
私が彼女に言った言葉。どきりと心臓が跳ねる。
『そ…っそれじゃあ…っ彼女の…自殺を…っ後押ししたのは…っわた、し……?』
「いや、それは違う」
秀一様が、私の頬を撫でた。温かい。彼の手が、こんなにも温かく感じる。
「いや…捉え方によっては…そうなるのかもしれないが…。それでも、彼女はきっと本望だっただろう。誰かによって自分や子供の命を絶たれるのではなく、潔く自分で命を絶つ方を選んだのさ。見ただろう。彼女の顔は…綺麗だった」
思い出したくはない。だけどあの、ベッドで眠るように死んでいた彼女の顔が思い浮かぶ。…確かに、彼女の顔は美しかった。今までの苦悩を洗い流したような顔だった。だから私は一瞬、安心したのだ。……あァ、良かった。彼女は泣き寝入りせず、気持ちよく…眠れたんだって。
……その眠りは、永遠の眠りとなってしまった訳だけど。
「彼女は最も幸せに…自分の気持ちを誰かに踏みにじられることなく死んだ。そしてそれは、間違いなくお前のお陰だ。…だから、そんな風に自分を責めるな…」
驚きのあまり、一瞬の間止まっていた涙が、またあふれ出す。大きな嗚咽はでなかった。ただ、静かに涙が溢れた。
混沌とした気持ちが、少しだけ落ち着いたようだ。さっきまで涙に混ざっていた怒りが抜け落ちたせいだろう。今はただ、純粋に彼女の死が悲しかった。
『それでも……私には…よく、分かりません…。どうして…彼女が死ぬ必要があったのか…。だって……生きていれば…』
どうして、子供を堕ろすことを彼女は拒絶したのだろう。どうして死ぬ必要があったのだろう。…分からない。私には…分からない。
「いつか…お前にも、分かる時がくるさ…」
もう一度、秀一様が私の頬を撫でた。長い指が涙を絡めとった。そして、秀一様はその指をぺろりと舐めた。私はただ呆然とその様子を見ていた。
「……甘い」
涙が甘い訳、ないじゃないですか…。
言葉の代わりに、零れ落ちる涙。それは、少しだけ、秀一様の優しさに触れた気がしたから。
「もう…泣くな…」
ぎゅう、と優しく抱きしめられる。身体に力が入らず、こてん、とその胸に顔を埋めて唯、涙を流す。
―――アンタは、アタシみたいにならないで。
―――お前にも…分かる時がくるさ…。
…分からない。そんな気持ちが、私にもあるのだろうか。
だけど…それでも…彼女が死ぬ間際…苦しまなかったのなら……。
密着した、秀一様の身体は温かく、力強かった。
感じる人肌に、気持ちが安心したのか、強い眠気が襲ってくる。それに抗わず、静かに目を閉じる。
……ごめんね…。
最後に、私があの部屋を出ていくときに、彼女が呟いた言葉は何だったんだろう?
…それが、なんであろうと…私はただ彼女にごめんね、の言葉を…伝えたい言葉を、心の中で繰り返していた。
141025
続きます