短編

□忠誠心を履き違えて
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その日、私はいつものように秀一様の酌をしていた。
今日の秀一様はいつになくハイペースだった。加えてなんだか少し、ピリピリとしているようで、あまり会話が上手く続かなかった。


私はただ無言でお酒を注ぐ。だけど、そんな風に機嫌が悪いのは初めてではない。だから特に気にすることもなく私は酌を続けていた。


……あの瞬間までは。





『あの…重いです……あ…ん…っ』


自分がどうしてこうなっているのか分からなかった。
不意に名前を呼ばれ、秀一様の顔を見ようとしたときには、もう私はソファーの上に押し倒されていた。その上にしっかりと伸し掛かり、先ほどから幾度となく口づけを迫られている。

決して深い口づけではない。ただ、重ねるだけの口づけを角度を変えて何度もされる。そんなことは初めてだった。私は恥ずかしさと変な緊張で抵抗することができなかった。

微かに香る、お酒と煙草の匂いが、これが夢ではないことを証明させる。相当酔っぱらっているのだろうか。心臓がどきどきと鳴り響いている。
とうとう耐え切れなくなって秀一様の胸をどんどんと叩く。それでも口づけをやめてくれる気配はなく、それどころか煩わしそうな手つきでその手を耳の横で押さえつけられてしまった。



『秀一様…!一体どうなさったのです…んぅ…!』


震える声を抑え、精一杯抗議しようとするのだが、また口づけをされ口を塞がれてしまう。掴まれた手首を力の限り動かしてみるがびくともしない。嫌、と顔を背けようとすると、今後は頭を手で固定されてしまった。
ちゅるりと撫でるように舌が入り込んできて身体が強張った。

怖い。
私の頭を支配していたのは恐怖だった。
今まで何度もわざと顔を近づけてからかわれたりはしていた。だけどそれは誰が見てもただのじゃれ合いであり、冗談だった。
だけど今日の秀一様は違う。やめてくれる気配は無いし、冗談の気配もない。
貪るように口内を荒らす。この人も男の人なんだと今更ながら思った。

頭がくらくらする。きっとこの長い接吻と秀一様の舌に乗ったお酒のせい。離された手で強く秀一様の肩を叩けば漸く顔を離してくれた。


『や……やめてください…っ』


ばくばくと心臓が鳴り響く。怖い。一体どうしてしまったというのだろう。


「主の言う事が聞けないのか」


冷たい声でそう言われ、また手首をぐっと掴まれる。その感情のこもっていないような無機質な瞳にどきんと心臓が跳ね、とうとう涙が溢れだした。


『い…やで…す…離して……っ』


嫌だった。
始めの方は、抱かれることも覚悟していた。だけど日が経つにつれ、秀一様はそんなことをしない人なんだと思うようになっていた。
それでも、覚悟はしていたけれど、こんな一方的に押し付けられるように抱かれるのは嫌だった。何よりも、先ほど見た、あの…冷たい瞳が、唯、怖かった。


かたかたと震え、涙を流す私に秀一様はそっと手を離した。それから身体を起こし、立ち上がる。詰まるような圧迫感から解放された私は、やっとのことで大きく息を吐いた。


「済まない……冗談さ」


背を向けたまま、秀一様は言った。気まずい空気から逃げるように私は急いで乱れた髪を手櫛で整え、でしたら今日は失礼します、と急いで部屋を飛び出した。


廊下を足早に歩いて、ふとしたところで壁にそっと寄りかかってみる。まだ、心臓が煩い。さっきまでの口づけを、改めて思い出して顔が赤くなる。

一体…どうしたんだろう。
考えが纏まらない。無意識に私の指は唇を抑えていた。
ちゃんと、覚えてる…。夢じゃない。
掠るようなお酒の匂い。柔らかく重ねられた唇。入り込んできた舌は、縦横無尽に暴れまわり、口内を荒らした。

頬が熱い。冗談だって言った。冗談?冗談…って、何?
少しだけ、胸が苦しかった。じゃあ、私は秀一様になんて言って欲しかったんだろう?…ああ、嫌だ。…考えたくない。


混乱気味だった私の頭は、こつこつと誰かが近づいてくる音に気が付かなかった。瑠璃さん…?と控えめがちに声をかけられ、そこで漸く誰かがそこにいることに気づいた。


「瑠璃さん…!久しぶりね。私のこと、覚えてる?」


『あ…宮野明美様…。お久しぶりです。私のことは呼び捨てで構いませんよ』


久しぶりに見た明美様の顔は、相変わらず青白かった。貼り付けたような笑顔に胸が痛くなった。


『どうかなさいましたか?私でよければ…お話を聞きますが…』


明美様は驚いたように目をぱちくりとさせた。それからふっと優しい笑みを浮かべて、貴女って、本当に優しいのね、と言った。


「本当に…いいの…?」


『勿論です。なんなら私をサンドバッグにしてもらっても構いません。悩みは溜めると…よくありませんよ…』


明美様はくすくすと笑って、私を研究室のような場所に案内した。


「ここには誰もいないから…。あのね、私…ずっと悩んでることがあって」


あきらめたような、悲しい笑顔を浮かべる明美様が、本当に心配だった。


「私ね…彼氏がいるんだけど。でもその人…本当の彼氏じゃないの」


思わずえ、と聞き返す。


「何て言うか…そう、利用されてるの」


利用、その言葉が妙にあの子と被った。
どうして男というのは恋心をすぐ弄んだりするんだろう。


「でもね…私は…それでも良いと思ってた。ただ、私はその人のことが好きだから…私が彼のことを好きってだけでいい、って…。見返りなんていらないって…」


彼女の笑顔に、涙が浮かんだ。この人もまた、あの子と同じなのだ。


「それなのに…、それで良いって決めたのに…
やっぱり、見返りを…あの人からの愛を求めてしまう自分が情けなくて……」


ぽろぽろと涙を流す明美様。なんて最低な人なんだろう。こんなに一途で、綺麗な涙を流す人を泣かせるなんて。


『そんな…明美様は、情けなくなんか…ないです。一途にその人のことが好きなだけじゃないですか…!だからそんなに自分のことを責めないでください…。自分の気持ちを抑えないでください…』


それはもう殆ど、あの子に対する懺悔みたいなものだった。彼女もあの子みたいになって欲しくなかった。


『言いたいことを言えばいいじゃないですか…!好きなら好きって…。利用されてるだけなんて…そんな…。それでフラれたら…そんな男の頬なんて引っ叩いてやればいいんです!いえ、私が引っ叩いてやります!』


救いたい。ただそれだけだった。
明美様はふふ、と笑いながら涙を拭って笑みを浮かべた。


「ふふ…ありがとう。此処にも貴女みたいな人がいたのね…。ありがとう」


明美様はすっと立ち上がり、大きく伸びをした。それからすっきりしたような顔でこう言った。


「…うん!私…あの人に…大君に、言ってみる。本当の…彼氏になって、って。それで駄目だったら、瑠璃さんの言ったように頬でも引っ叩いちゃおうかな!」


温かい笑顔を浮かべる明美様。だけど私の心は逆に冷たく凍り付いた。


今、なんて?


『あの…?明美様の…意中の男性…って…?』




「えっとね…諸星大。コードネームは、ライよ」










午前3時の廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。
秀一様の部屋に帰るのは気が引け、久しぶりに自室へと通じる廊下を歩く。


心臓は既に平常運転を取り戻していた。明美様、大丈夫かな。驚いたなァ…明美様と、秀一様が付き合っていた…なんて。


じゃあ、さっきのキスは本当に冗談だったんだ。ホント、明美様を泣かせておいてその上小姓である私にキスするなんて…本当に最低な人。

明日会ったら言ってやろう。明美様が苦しんでること。それから、冗談であんなことするなんて最低だって。


ああ、だけど、良かった。
私、多分秀一様のこと…好きになりかけてた。あんな最低な人のこと…。たまに優しいから、ぐらっときちゃったのかな。

危ない、危ない……。


静かに自室の扉を開けた。
久しぶりに帰った自分の部屋は、当たり前だが出ていった時のままだった。

そのまま扉を閉め、寄りかかる。



『…………ホントに?』



…ホントにそう思ってる?


思ってる。思ってる。第一彼は私の主であって、それ以外の何者でもないもの。
忠誠心を履き違えてはダメ。ずっと自分に言い聞かせてきたじゃない。これはそう…無垢で穢れの無い忠誠心だと。


…どうして?どうして言い聞かせてた?


『……………ふふ』


どうして…か。そんなの、決まってる…。


『ははは……あはは…っ』


渇いた笑い声が零れた。渇いた涙が流れた。



『あは…っあ……う…っ…っ…』


そうだ、私はこれが怖かったんだ。
一度認めてしまったら、もう知らないふりをしていた頃には戻れない。


だけど、どうすればいい?

あの二人の間に立ち入ることなんてできない。
明美様を裏切ることは、あの子を裏切ることとなんら変わらない。


ホントは嬉しかったくせに。あのキスだって。

ホントは冗談なんかじゃないって、言って欲しかったくせに…。



でも、そう…気づきたくなかった。

あの冷たい瞳には…私など映っていなかったということに。

胸が張り裂けそうだった。心がばらばらに引きちぎられて、どうにかなりそうだった。


もう、自分に嘘はつけない。
もう、心を偽って、気づかないふりをすることはできない。




あぁ、私、ホントは


どうしようもないくらい



秀一様が好きなんだ……








その夜、私は枕に顔を思い切り埋めて、
叫び声を押し殺して、泣いた。



141102
続きます

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