短編
□それでもお傍に置いていただけますか
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私の中から、
とめどなく、あふれ出すのは、
心でもなく、涙でもなく、
朱い、紅い、赤い、血……。
真っ赤に染まる左手を眺めながら横になる。頭がぼんやりと霞んでいく。痛さは感じなかった。
そっと、ぎこちない動きで右手を胸ポケットに突っこんでみる。そこから鍵を取り出し、離さないようにゆっくりと、きつく握りしめる。
わたしのたからもの。
わたしとあなたをつなぎとめる、さいごのたからもの。
例え私がただの道具だったとしても、
例え私が何者であったとしても、
これはだけは失くしたくない、私の最後の夢。
ガンガンと、扉を叩く音が聞こえる。
私がグラスを落としたせいだろう。がちゃがちゃと鍵をこじ開ける音が聞こえた。この扉が開くのも時間の問題であろう。
裏切られて、捨てられて、利用されて、それでもその男のために命をおとした女。
…悪くないわね。ゆっくりと瞳を閉じた。
扉が開いた音がした。初めに聞こえたのは意外にも…鋭い女性の声だった。
「―――瑠璃!何をしているの!」
その予想だにしていなかった声の主に、重い瞼を開けてみる。
『あ…ベルモット…さ…ま…』
ベルモット様はすっと私に駆け寄り、無駄のない動きで左手首の止血にとりかかった。見つかったのが、この人で良かった。私はどうしても、この人に言いたいことがあったから。
『ベル…モット…様……。私は…あなたに…伝えたいことがあるんです……』
思った以上に声は出なかった。ベルモット様は驚いたように私を見た。そして左手首をきつく締める。
『わた…し…、今…とても嬉しいんです…。生きてきたことが…ここで…働けたことが…』
「喋らないで」
眉間にしわを寄せ、私を窘めるように声をかける。だけど、私はそれを聞かず、話を続けた。
『ここで生きて…私は…とても大切なことを…学んだ気がします……辛くて…悲しかったけど……だけど……だけど…』
言葉が上手くつながらない。頭が素直にまわらない。
『私……今…幸せです…だか…ら…あの場所で…私を…拾ってくれて…ありがと…う…ございました……』
どうしても、言いたかった言葉。
拾われなければ良かったと、ずっと思っていた。
だけど、私はそれでも、生きることで、
大切な、素敵な何かを…掴み取った気がする。
ベルモット様は静かに私を見つめていた。それからそっと少し待ってて、と呟き、部屋を出ていった。
ああ…これで良かったんだ…。
ベルモット様にきちんと挨拶もできた。ずっと伝えたいと思っていた。私の本当の気持ち。
同じように、秀一様にも気持ちを伝えられたら良かったんだけど…。
だけど、それはみてはいけない夢。捨てなければいけない希望。
死に際に、あなたの名前を呼ぶことすら躊躇われる、私の立場。
もう…いいよね。
ごめんなさい、ベルモット様…。
頭の中に浮かぶ物事が形にすらならなくなるほど、何もかもが霞んでゆく。
その波に逆らわず、瞼を下ろす。
バン、バン、と引き裂くような銃声が鳴り響いたのはその直後。
だけど鈍色に淀んだ頭では、それが銃声だと気づくのに時間がかかった。
――――瑠璃!!
誰かが私の名前を呼んでいる。叫んでいる。
――――おい!瑠璃!
誰かが私の肩を揺さぶっている。誰?もう、私は目を開ける力すら残っていないのに。
――――……。瑠璃…―――
今度は頭の中で声が聞こえた、気がした。
懐かしい、ずっと傍にいた、あの子の声。
――――…アンタは…まだ…瑠璃―――
その声に引き寄せられるように、ふわりと瞼が持ち上がる。
途端に耳に入る騒がしい音。どくどくと痛みだす左腕。しっかりと感じられる、右手に握りしめた鍵の形。
あぁ、これは、夢―――?
あなたが、こんなにも、近くにいる―――
「瑠璃!!」
叱責するような、厳しい声。だけどそんな声ですら愛おしい。これは夢?私が作り出した、都合のいい幻?
『……ち…さ…ま………しゅ…いち…さま……』
夢でも、幻でも、なんだっていい。私は本当に幸せだ。あなたをこの目で最後に拝むことができたから。
全身の力を込めて、赤に染まった左手を持ち上げてみる。私の手が、あなたに触れる。ずっとこうしてみたかった。温かい、あなたの顔。すのままするりと抜け落ちてしまった手をしっかりと握られる。……温かい。あなたの手は、本当に温かい……。
「待っていろと言ったはずだ…!」
初めて聞いた、あなたの焦ったような声。私も声をだそうと大きく息を吸い込んでみる。だけど、精一杯大きな声を出したつもりだったけど、掠れたような、途切れ途切れにしか言葉はでなかった。
『ごめ…な…さい……わた…し……命…れ…いを……守れ………くて……ごめ……さい……』
すう、とひとつ、また息を大きく吸い込む。
『……で…も……わた……幸せ……で……す……しゅう…いち……様に……出会えて………よか………た…』
この気持ちが、伝わったのか、まして、声になったかすら分からない。
それでももう、私は満足だった。幸せだった。嬉しかった。
「死ぬな。命令だ!お前は俺の小姓だろう!」
『私は……命…令…を……やぶりす…ぎ……て……し……まい……ま……した……』
そう…だから、もう、
あなたの小姓と名乗る資格もない。
もう、言葉を発する力は、残っていなかった。
「お前は主の言う事も聞かず、勝手に小姓をやめるつもりか!そんなの、主である俺が許さない……だから、死ぬな。瑠璃!」
一滴、冷たい私の頬を伝った熱い涙。
まだ、私にも温もりが、涙が、残っていたんだ…。
一旦流れ始めた涙は、堰を切ったように止まらない。涙が頬を撫でる感覚が、やけに心地よい。
私には……そんな資格も、ないのに…。
それでも、あなたは……
『あ……わたし……そんな……こと…言って……もらえる……なん…て……』
心に涙が滲んで、ざわざわと潤いを取り戻してゆく。水を受け、植物を蔓延らせるオアシスのように、心が温かく、色とりどりになってゆく。
もっと、この人の傍に居たい。
まだ……死にたく、ない…。
抑えていた気持ちが、暴走する。もっと、ちゃんと…この人を愛したい。……愛されたい。
こんな私だけど、それでも、それでも…
『それでも…お傍に…置いて…いただけますか……』
秀一様は、当たり前だと言うように深く頷いた。私は安心して、瞳を閉じようとする。あなたの顔が、近づいてくる。
「……愛してる…」
唇に触れる、柔らかい感触。
大粒の涙がまた、頬を伝った。
このまま死んでしまうのも…悪くないかもしれない…。
だけど……この感触を忘れたくない。生まれ変わっても、この瞬間だけは、忘れたくない…。
秀一……様……
私の意識は、闇の淵に引きずり込まれるように、
無情にも、消えて、無くなってしまった。
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