短編

□それでもお傍に置いていただけますか
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力のない、人形のような瑠璃の身体を抱き上げ、部屋を飛びだす。

追手を躱しながら、出口へとただ走る。小さなか細い命を繋ぎ止めるために。



これは俺への罰だろうか?


始めはただ、利用するためだけに傍に置いておいた、瑠璃。

八年前から居ると聞いたときも、正直ツイていると思った。


瑠璃の情報量は予想以上で、更に俺に媚びず、少年のように素直に言う事を聞く、汚れの無い性格。


恋すら知らないただの子供。

情報を搾取する標的として、この上ない素材だと、最初はよく思っていた。



その、ただ純粋だった魂は、友の死によって揺り動かされた。

子供から大人に変わる瞬間の、はっとするほど美しい目覚め。

俺はその瞬間から、こいつから目を離せなくなってしまった。


ただの興味だと、自分を誤魔化していたのは俺の方だ。


その瞬間に、俺は恋におちてしまったのだと。


それを信じなかったばかりに、彼女を苦しめ、追い詰め、そして……。




ぐっと奥歯を噛んだ。だけど、だからこそ…

…お前を死なせは、しない。


ぎゅっと彼女を抱いている手に力が入る。

あともう少しで出口だ――、そう思った刹那、人影が前に立ち塞がった。あぁ、これは……最悪だ。苦笑いが零れる。


「その子を下ろして、手を上げなさい」


その人影は、眉ひとつ動かさずに、平然と拳銃を構えてそう言った。よりによって、最後の最後にこいつに捕まるとは…。


「久しぶりじゃないか……ベルモット」


拳銃を構えなおし、きっと瞳を吊り上げる。


「聞こえなかったの?その子から手を離すの」


そう言えば、瑠璃はこの女に拾われたんだったな…。


「珍しいじゃないか…お前が誰かにそこまで入れこむなんて」


ベルモットは鼻先だけでフンと笑った。それからすっと俺のことを真っ直ぐ見つめる。


「あなたこそ、意外ね。あなたがそんな風に女を愛するなんて、思ってもみなかったわ。さぁ、何度も言わせないで。その子を離して頂戴。それとも…その子じゃなきゃいけない理由でもあるの?」


「……いくつになっても、大切なモノってのは失うまで気づかないのさ」


青い顔をしている瑠璃の顔を見下ろす。他の誰か?…考えたくもない。瑠璃じゃなければ駄目なのだ。


「あれだけ彼女を傷つけて、泣かせておいて、よく言うわね。……それに、もうその子、手遅れよ。今でも随分危険な状態だし、それにその子…血液型はAB型のRHマイナス…。此処を抜け出してもすぐにその血は用意できないでしょう」


瑠璃の顔色は、どんどんと悪くなっていた。身体の体温が下がっているのも、肌で体感していた。着々と死の影は瑠璃のことを蝕んでいるのだ。


「だったら尚更そこをどいてくれないか」


「聞けないわね。あなたはこれからも確実にその子を苦しめるもの。それはあなたが組織を抜け出す事より許せないことだわ。言ったでしょう。…助からないって」


「助けるさ」


図らずとも瑠璃を抱く手に力がはいる。


「…今やっと、こいつの痛みが分かる。大切なモノを失くすってのが、こんなにも痛いものだとは思わなかったぜ…。だから、俺はこいつを死なせはしない。もう、この手は離さない」


今度は俺がベルモットを真っ直ぐ見つめる。


「………彼女のこと、愛しているの?」


「愛してる。…この命を投げ出しても構わないくらい」


彼女は少しの間、探るような目で俺のことを見据えていたが、やがてふっと諦めたように息を吐いて拳銃を床に置いた。



「……いきなさい。今は見逃してあげる…。それから」


ベルモットは鞄を床に滑らせた。反射的にベルモットの方を見る。


「……AB型RHマイナスの血よ。せいぜい使うと良いわ」


俺はそれを肩に背負い、悪いな、と呟いた。そして前だけを見て走り出す。ベルモットの横を通り直ぎ、出口へ。


「…次会ったら容赦しないから」


すれ違いざまにそう呟かれた。…あぁ。その時は、正面切って勝負しようじゃないか。俺も心の中でそう返す。





瑠璃の脈は、益々弱くなっていた。自らの手首を切ってから、もう随分と時間がたっている。


死ぬな………


祈るように、一心不乱に瑠璃を連れ出す。もう失いたくはない。もう、…お前を一人にさせは、しない。










組織を抜け、FBIの医務室に瑠璃を連れ込んだ時にはもう、その身体に温もりと呼べるようなものはほとんど残っていなかった。

輸血をしながら、瑠璃の小さな拳をただ強く握りしめる。

瑠璃の顔は、恐ろしいほど白く、透き通っていた。
握った拳はぴくりとも動かない。死ぬな…。今までこれ程までに誰かの生を祈ったことがあっただろうか。

自分の命を投げ出すことを怖いとは思わなかったが、彼女の命を失うことは、底が見えないほどの恐怖だった。


容体は、穏やかではなかった。
あとは瑠璃の体力次第なのだと言われた。


逝くな……瑠璃……瑠璃……!



拳を握る手に、益々力が入った。俺はただ、心の中で瑠璃の名前を叫んでいた。

















――――そよそよと、甘い匂いの漂う、お花畑――――



気が付けば、私はそこにいた。いつから居たのかは分からない。甘い香りが頭まで侵しているような錯覚を覚えた。


そこは、とても綺麗だった。だけど私はぞわぞわとなじるような不安に包まれていた。

私は自分が何者なのか、分からなくなっていた。ここがどこなのか。どうして私はここにいるのか。何も分からなかった。

私って、誰だっけ。名前は?歳は?なにをしていた?…分からない。思い出せない。

甘い香りが考えの邪魔をする。くらくらと風が私を責めたててゆく。

もう、何も考えたく…ない。
その場にそっと倒れこむ。黄色の花びらが風にのって舞い上がった。

分からない。考えたくない。このままここで、ずっと眠っていたい。

だってここは凄く心地よい。頬を撫でる風も、甘ったるい花の香りも、私を捕まえて離さない。



不意に、誰かの気配がした。

重い頭を上げて、気配のする方を凝視する。気が付かなかったが、すぐ目の前に川があるようだ。そして、その向こう側に、確かに誰かがいるようだった。


誰……?足に力を入れて、立ち上がってみる。そこに誰かがいることは間違いないのに、その誰かの顔は、霧がかかったように見えなかった。誰?あなたは、誰?首を傾げて尋ねてみる。


久しぶり。


その人はそう言った。その声には確かに聞き覚えがあった。私の中でとっても大切だった、ような気がした。


あなたは私を知っているの。


自分が何者なのか、この人なら知ってる気がした。急いで川を渡ろうとする。水が足を撫でる。冷たさは感じなかった。


ダメ。きちゃ、ダメよ。


その人は、川べりに近づいてきた。それでも顔は見えなかった。


どうして。教えて。私は一体誰なの。あなたは、知っているんでしょう。


ええ、よく知ってるわ。だけどまだ、来るには早すぎる。だから、ダメ。ねぇ、右手に、何を握りしめているの。大事なものなのね。


自分が何かを握りしめていたということに、今やっと気が付いた。
強張る手を、ゆっくり、ゆっくりと開いていく。


私の手に入っていたのは、鍵だった。小さな鍵は、私の手の中で金色に輝いていた。私、……この鍵を、知っている。なんだか不安になって、その人の方を見つめる。


素敵だわ。良いものを持っているじゃない。ほら、聞こえるでしょう。耳を澄ましてみて。




――――……―――……――



言われた通り、耳を澄まして音を聞いてみる。風の音がざわざわと鳴っている。草が擦れてさわさわと鳴っている。川が鳴き声をあげて流れている。

洪水のような音に紛れて、微かに、それでも、はっきりと、誰かの声のようなものが聞こえた。誰の声だろう。何を言っているのかは、聞こえない。


まだ、名前を呼んでくれる人がいるのね。目を、閉じてみて。


導かれるまま、静かに目を閉じる。川の音が、僅かに小さくなる。








唇に触れた、柔らかい感触。頬を伝う、涙。


ああ、―――――


目をゆっくりと開いた。視界がゆらりとぼやけて揺れている。だけどそれは涙のせいだけでは無いはずだ。


―――覚えている。確かに、覚えている。あなたの、唇の―――



その人にかかっていた霧が、さらさらと晴れていった。その人は、笑っていた。笑って、私にこう言った。


ほら、聞こえるでしょ。アンタは、まだ、死んじゃダメ。ちゃんと帰らなきゃ。名前を呼んでくれる人の場所へ。


目の前の人物は、間違いなく、友達だった。私は彼女の名前を思い切り叫ぼうとした。だけど、それはもう声にならなかった。


また会おうね。アタシは、ずっとここで待ってる。アタシの為に、いっぱい泣いてくれて、ありがと。大好きだよ、瑠璃。


視界が揺らぐ。色とりどりの花が、ぐちゃぐちゃに混ざって溶けてゆく。私も、大好き……。根拠はないけれど、その言葉は届いた、と思った。






















白い病室に横たわる瑠璃は、もうほとんど、助からない状態だった。

俺はなお一層、彼女の名前を呼び続ける。拳を握り続ける俺の手は、微かに汗ばんでいた。


瑠璃の顔を見た。ただ眠っているだけのようにも見えた。正面からしっかりその顔を覗き込む。


小さな唇に、突然フラッシュバックする光景。ああ、俺はコイツに…。あの日の夜のことが鮮明に脳裏に浮かぶ。


あの夜…俺は、自分の瑠璃に対する気持ちに、多少苛立ちを隠せないでいた。

それを恋だと認めたくない一心で、浴びるように酒を呑み続けていた。

それでも酔いは全然回らなくて、瑠璃をからかいでもすれば気が紛れるかと思って、何気ない気持ちで、瑠璃を押し倒した。

そう、何気ない…いつものように、ただからかうつもりで。

だけど、俺の下で組み敷かれるように縮こまる瑠璃に…抑えがきかなくなってしまった。

自分がコイツを好きなのだと、その時気が付いた。

他のことを考え、コイツを頭から追い出そうとしても、唇は、舌は、止まらなかった。

それどころか、追い出そうとすればするほど、この瞬間を終わらせたくないとすら思った。


瑠璃は…俺のせいでどれだけ泣いたのだろう。心を痛めたのだろう。

自分勝手に振り回して、泣かせて、傷つけて…。

恋すら知らなかったのは…俺の方だ。


いくら懺悔しても、瑠璃の閉じられた瞳は開かなかった。

許してくれとは言わない。だけど、せめて…。


…償うことくらいは、させてくれ…。




もっと早く、これが恋だと気が付けばよかった。

もっと早く、コイツをきちんと愛しておけばよかった。


今度はもう離さない。ずっと傍にいて、誰よりも大切に愛すると誓うから。

だから、だから、もう一度だけ。






小さな唇に、そっと自分の唇を重ねる。瑠璃の唇は、あの日と何も変わらず、柔らかく、甘かった。




開いた窓から、ふわりと風が舞い込んできた。ゆっくりと、顔を離す。差し込んだ朝日が、瑠璃をゆっくりと照らしてゆく。


ぴくんと繋いだ手が跳ねた気がした。同時にどくんと自分の心臓が跳ねたのが分かった。


微かに、酷く儚げで、弱々しいものだったけど、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。

ゆっくりと、固く閉じられていた瞼が持ちあがる。やけにスローモーションで映し出される現実。胸が熱く震えた。



「瑠璃」


名を呼んだ。瑠璃は笑みを浮かべた。瑠璃の口が開く。もう一度、俺の名を呼ぶ。













『………ぃち…さま…』


目が覚めて、飛び込んできたのは明るい朝日に照らし出された秀一様の姿だった。

ずっと会いたかった。もう一度会いたいと、願っていた。

秀一様が私の名前を呼んだ。胸が熱く震えるような感覚を覚えた。自分が生きているという実感でもあった。

自然と笑みが零れた。嬉しかった。幸せだと思った。右手の拳には、まだ金色の鍵が握られている感触があった。

だけど、もう、先ほどまでの夢とは同じじゃない。

私の手は、ひとりぼっちじゃない。握られた拳のを覆いかぶさるような、秀一様の温かい手。あなたがいる。私はあなたと繋がっている。


秀一様。もう一度名前を呼んだ。秀一様も、笑みを浮かべた。ゆっくりと近づいてくる顔。―忘れなかった。そして、これからも―







ふわりと、あの子の笑い声のような風が病室に入ってくる。
柔らかい風は、カーテンを揺らし、私の頬を撫でた。――ありがとう。きっとこの風は、この想いを彼女に届けてくれるだろう。


朝日が静かに病室を照らす。ああ、朝日なんて、何年ぶりに見ただろう…。



風にのって届いた甘い香りがそっと鼻腔をくすぐった。視界の端で、手を振るように揺れているカーテンを捉えてから、私は静かに目を閉じた。










141106
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