短編
□昴さんとホワイトデー
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甘い甘い、チョコレートの香り、に混じった、少し苦い香り。
『あ…っ!ちょ、昴さんっ!駄目ですよ!チョコレート電子レンジで溶かしちゃ!』
「あ、そうでしたか。また一から作り直しですね…」
昴さんがあまりにも申し訳なさそうに謝るから、思わず声をかけた。
『そんな気にすることないですよ…まだ作り始めだし。じゃ、もう一回始めからやりますか』
昴さんはコナン君を通じて知り合ったシャーロキアン仲間である。
…と言っても出会いはもっと別のところからで…街中でぶつかったのが始まりだったんだけど。
あの日、本屋さんでホームズの本を買っていた私が昴さんとぶつかって…拾ってくれた時にホームズが好きなんですか、と声をかけてくれたのだ。
もっともその時の会話はそれぐらいで、その後にコナン君にシャーロキアンがいるからと昴さんを紹介されたのが今の仲の始まりである。
あの時はびっくりしたよなぁ。
焦げてこびりついてしまったチョコレートを必死にふき取る昴さんを見て思う。
それからは…たまにお茶とかして色んな話をする程度の仲。
バレンタインは渡すかどうか迷っていたが、そんなことをするのもおこがましいと思い渡さなかった。
そして…今日はホワイトデーの当日。
お菓子を作るのを手伝ってくれないか、と昼前に連絡をもらったのが、今日の事の発端である。
「すみませんね…普通の料理は多少教えてもらっていたのですが…お菓子作りはどうも」
教えてもらう?…彼女にかな?
微かなわだかまりを飲み込んで話を続ける。
『いえいえ…普通の料理ができるんなら十分だと思いますよ!お菓子作りなんて私も滅多にしないし…。あ、チョコレートは湯銭で溶かしてくださいね』
「…そういう事はやはり女性の貴女の方が詳しい。私一人ではまずチョコレートの溶かし方すら分かりませんでしたから…」
そういうところが可愛い、なんて思ってたりする。
きっとモテるんだろうなぁ。紳士だし、優しいし、賢いし…。
私がお菓子作りを手伝ってる、なんて昴さんの彼女さんに知られたら…修羅場になりそうだなぁ。
洗面所に隠すように置いてあった長い髪のついた櫛と、食器棚のところに置いてあった髪留めを思い出してふ、と小さく息を吐いた。
「…どうかされました?」
『あっ!いえいえ!なんでもないです!じゃ、次は卵を割って、あとお砂糖も…』
チョコレートみたいに甘い甘い時間。
ずっとこうしていたいな、なんて柄にもなく思ってみたり。
『…あ、ちょっと火が強いかな…。あんまり溶かしすぎると油が浮いちゃうから…』
そう、チョコレートは熱くなると溶けてしまうから。
溶けてしまって…こうやって普通にお喋りすらできなくなってしまったら…考えただけで、苦い。
「…あ、頬に砂糖がついてますよ…」
『え?どこです…っ』
一瞬だった。
不意に手が伸びてきて。温かい親指が頬を撫でたと思ったら、昴さんがその親指をぺろりと口に含んだのだ。
「甘い…。よかった、ちゃんと砂糖をいれてて」
『し…塩と…間違えたかと思ったんですか?』
「ええ、まあ…入れるときにちょっとドキドキしてましたから」
なんとか平静を装っているけど内心顔はもう真っ赤。
あんなの反則だ。…私の心は、一瞬で熱っぽくなってしまった。
ドキドキしてるのは、私の方なのに。
「後はこれを流し込んで…冷やせば完成ですね。もう大丈夫です。あとで紅茶を淹れますから先に休んでてください」
『…じゃ、お言葉に甘えて』
座れば沈み込んでしまうほどフカフカなソファーに座り込む。
あぁ、終わっちゃったな。
だけど今日は楽しかった。…もう二度とこんなことはないだろうけど。
もうやめよう。彼女さんにも悪いし、…何より、私の気持ちはもう、後戻りできないところまで来ている。
これ以上、ただのお友達として昴さんの傍にいることなんてできない。
「どうぞ」
コトリ、と紅茶のはいったカップが目の前に置かれてハッとする。
『ありがとうございます…』
「…大丈夫ですか?なんだか今日は元気がないようですが…」
やめて、かき乱さないで。
貴方が優しいから辛いの。
『あ、いえ…実はちょっと寝不足で。でも大丈夫です。…今日は楽しかった』
「無理をさせていたのならすみません…私も楽しかったですよ。今度また是非お菓子作りを教えてくださいね」
そんなことを言わないで。
決心が弱ってしまうから。
『……あの』
「はい?」
ぐっと息を飲んで、一番知りたくて、一番聞きたくない質問を投げかける。
『今日のアレ…一体誰に渡されるんですか?やっぱり彼女さんとか?』
「いやぁ…ただのお返しですよ」
煮え切らない回答がもどかしい。…でも、私は知ってるもの。この家に散りばめられた、女の人の痕跡を。
ありえないことを取り除いて残ったものが真実なんだと、ホームズも言っているから。
だからもう、こんなことは続けていちゃダメなんだ。
『嘘。彼女さんに渡すクセに…。私、髪留めとか見つけちゃいましたし…。夕方くらいに渡す相手の方くるんですよね。だったら私、もうおいとましますね。…誤解招くといけないから』
「あ、いや、それは…」
ピンポーン…。
立ち上がった時、インターホンの音が響いた。
丁度いい機会だわ。その顔を拝ませてもらおう。…もちろん、私は昴さんとはなんの関係もないこともちゃんと説明して。
玄関に向かい、ガチャリと半ば強引に扉を開いた。
『…きゃっ!?』
と、同時に何か小さなものが足に突進してきて思わずしりもちをついてしまった。
「うおっ!!イテテ…」
「もうっ!元太君!駄目じゃない!お姉さん大丈夫?」
『うん…?ありがとう…あれ、コナン君達じゃない!どうしてここに…』
「あれ?そっちこそなんで…」
「やぁみんな。予定より随分早くきたんだね…」
「あったりめーだろ!兄ちゃんがバレンタインのお返し振る舞ってくれんだからよ!」
「歩美、今日はお兄さんのお菓子食べるためにお菓子一つも食べてきてないんだからねっ!」
「残念だけど…まだ微妙に固まっていないかも…」
「えーっ!んだよぉ…」
「だから早く行ったってしゃーねぇっつったろ?」
「ま、時間つぶしと言ってはなんだけど…謎解きのゲームを考えてあるからそれをして待ってるというのはどうだい?」
「謎解きですか!それは是非やらせていただきたいですっ!」
バタバタと居間に駆け込む子供たちの後についてゆく。
早速うんうんと頭を唸らせて謎を解く子供たちに思わず頬を緩めた。
『…子供たちにだったんですね。あのチョコレート』
「ええ…バレンタインの日にみんなで作ったものを貰いましたから」
『んー、あと1時間くらいかなぁ…』
冷蔵庫を覗き込んで固まり具合を確認する。…と、その奥に見慣れないクッキーを見つけた。
こんなの作ったっけ?
ぼおっと考えていると、昴さんの手がそれに伸びて、すっとそれを手にとった。
「…これ。昨日、ひとりで作ったんです。貴女に是非と思って…」
『え…でも、駄目ですよ…そんな…。彼女さんに悪いから…』
「…何を勘違いしてるのか。私に彼女はいませんよ。恐らくその女物の品々は元々の家主のものでしょう」
『え…』
開いた冷蔵庫を背にして押し付けられる。
開いた冷蔵庫の扉に丁度隠れて子供たちの姿は見えない。
「割と素直に気持ちを表していたつもりだったのですが…全て空回りしていたようですね。ホームズの言葉を思い出しましたよ。明白な事実ほど、誤られやすいものはない、と」
後ろから冷蔵庫の冷気が流れているにも関わらず、私の顔は真っ赤に火照っていた。
「貴女が好きです。…付き合ってください」
扉の影に隠れて静かに顔が近づいてくるから。
私は返事の代わりにそっと目を閉じて、その大きな背中に手をまわした。
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