短編

□安室さんと風邪っぴき
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『げほっ!げほ…っ!!…っ!くしゅんっ!』


咳をしてもひとり、とはまさにこのことだろう。
一人暮らしの風邪っぴきほど辛いものは無い。家事はできないし虚しく自分の咳き込む音が部屋に響くだけ。微妙な孤独感が増幅する。

真っ暗な部屋だとなんだか気持ちまで真っ暗になってしまうので、ほんのりと薄暗い保安灯を何となく眺めながら最近買った抱き枕の「太郎ちゃん」を抱きしめてベッドに横になる。

うー…。あたまいたい。からだがダルい…。

一応医者には行ったのだが薬を飲む元気すら残っていなかった。立ち上がって台所まで足を運ぶことすら煩わしい。だけど薬を飲まなきゃ治らないし。でも身体が動かないし。そんな葛藤の最中ついうとうとしていると、スマホから着信音が鳴り響いた。

誰だろう…と半分回っていない頭を動かしながら怠慢な動きでスマホを手に取る。光る画面に目をやると「安室透」の文字が見えて心臓がどきっと跳ねた。


『…もしもし』


「もしもし。今バイト終わったんだけど。夜ご飯がまだなら一緒にどうかと思って」


『うー…行きたい。でも今日はちょっと…けほっ、風邪ひいちゃって』


「…大丈夫かい?そういえばなんだか声が変だね」


『うん…寝れば治るから。また今度。…誘ってくれてありがと』


「ん、お大事にね」


ぷつりと電話が切れた後も声の余韻が耳に残っていた。
身体は怠いけれど、叫びだしたい気持ちが心臓の奥から膨らんでくる。

…ああ、もう。ずるい。…好き。

私と安室さんは付き合っているという訳では無い。私は元々ポアロの常連で、新しく入った安室さんと仲良くなって…連絡先を交換しただけで。
だけどこの人は本当に狡い人なのだ。付き合う気は無いくせに、こうして度々連絡をしてきたり、ご飯のお誘いもしょっちゅうくる。
送ってくれたり迎えに来てくれたり、これ以上ないくらい優しくて、まるで彼氏のように振る舞ってくれるのにそれ以上は踏み込ませてくれない。何か秘密を抱えた人。

実際私は彼に一度言われているのだ。いつものように呑みに行って、少し酔っぱらって甘えてしまった時に少しだけ悲しげな瞳で。


「僕には君に言えない秘密がある。だからきっと…君とは付き合えない。僕なんて好きになっちゃ駄目だよ」


…そんなことを言われて嫌いになれたらどれだけ楽だろう?


『…けほっ、けほっ……っ』


好きになっちゃ駄目、なんて言っておきながらどうして連絡なんてくれるんだろう。どうしてご飯なんて誘ってくれるの?…ああ、もう。本当に狡い。それならいっそ突き放してくれた方が。…いや、でももう少しだけこの煮え切らない関係を楽しんでいたい。

さっきまでの電話を思い出して耳が赤くなる。昂る気持ちのまま「太郎ちゃん」を抱きしめる。だって無理だもん…諦めるなんて。電話一本しただけで、こんなにもあなたのことで頭がいっぱいになるのに…。


今まであったことや、先程の電話を反芻しながら微睡んでいると、今度はインターホンが鳴った。何か宅配便でも頼んでいたっけ?本当は居留守使いたいけど…また来てもらうのも面倒くさいしな…。

よろよろと重い身体を引きずりながらモニターを確認すると、そこに映った姿に卒倒しそうになった。


『あ、安室さん!?』


「やあ、大丈夫?」


ど、ど、どうしよう…!こんなパジャマ姿で、部屋も片付けてないのに…!!だけどせっかく来てくれたのだ。それになにより…会いたい。
これは夢か幻か。どきどきする心臓を抑えて玄関の扉を開く。紛れもない本物の安室さんが立っていて風邪の熱かなんなのか、私の身体は少しだけよろめいた。


「…っと、ふらふらじゃないか。ベッドに戻ろう」


『は、はい…いや、びっくりして』


なにこれ、本当に現実なの。安室さんが私の部屋に居るなんて。そんなこと…いや、ずっと夢見てきたことだけど。だけど…ありえない。というか信じられない。

安室さんに支えられながらベッドに戻ると、安室さんの冷たい手が額と首筋に触れた。それだけでもう幾分熱が上がってしまったような気がする。


「…熱が高いな。薬は?」


『…まだ、飲んでない。…食後って言われたんだけど、何も食べたくないの』


「駄目だよ、何か口に入れないと回復しないよ?ほら、ゼリー買ってきたから、少しだけでもいい、食べよう。座れる?」


ほら、もう。こんなにも優しい。
安室さんがぶら下げた袋からはゼリー数個とスポーツ飲料、果物、野菜、いろんなものが入っていた。正直ゼリーとスポーツ飲料はとってもありがたい。一口に掬ってゼリーを差し出してくれる。ぷるぷるのそれが喉を通る感覚が新鮮に感じられた。

1カップすべてを食べることはできなかったが、胃にモノを入れたので少しだけ元気が出てくる。薬と水まで用意してくれてそれを飲み干し、漸く横になるとなんだかもう、こんなに幸せでいいのだろうかと怖くなった。


『ありがと…本当に』


「いいよ。僕がしてあげたいだけだから」


…してあげたいって?どういう意味?…付き合う気はないくせに?
だけどそれは聞いてはいけないこと。彼との距離は極めて近くて、限りなく遠い。


「…少し眠るといい。傍に居るから」


そう言いながら片手を布団の中に入れて、手を繋いでくれる。…また。そんなことをする。だけど振りほどくことのできない弱い自分。今日は風邪を引いてるから。甘えたいから。今日もまた…煮え切らない関係を煮え切らせないまま。
…傍に居てくれるけど、起きたとききっと彼はもうそこにはいないだろう。きっとそれがこの関係をずるずると引きずる私への罰。望んではいけないこと。


風邪の時はどうしてこんなにも寂しくなるのだろう?私はどうしてこのときそんな言葉を口走ったのか。弱った気持ちと微睡が現実と夢の違いを区別できないまま、望みを口にだしてしまったのだろうか?


『…風邪、うつしても、いい?』


安室さんの瞳が珍しく動揺した。繋いでいない片方の手で、何かを考えるような素振りをしながら私の髪を撫でつける。それを2.3回繰り返したあと、私の頭を抱き込みながらキスをした。唇に。


「……言っただろ?…僕には君に言えない秘密があるって…」


私の顔を、その逞しい胸に押し付けながら、悲しげな声でそう言う。私は消え入りそうな声でうん、と呟く。


「僕なんて…好きになっちゃ駄目だって…」


もう一度、うん、と呟き返す。安室さんの細い指が頭を撫でる。だけどだって、無理なんだ。…無理なんだ。そんなの。

安室さんはそれ以上何も言わなかった。ただ強く手を繋ぎ、頭を抱きながらゆっくりと髪を撫でてくれるのが悲しくて、嬉しくて、幸せだった。

…安室さんの匂いがする。体温。鼓動。こんなにあなたが近くにいる。
……目が覚めた時も、傍にいてくれますように。……。


不安とも歓喜ともつかない感情が胸の中に広がって、意識の海に溶け込んでゆく。
だから…今は…眠ろう。
最後に安室さんの手を強く握った。するとその手を更に強く握り返してくれた、気がした。






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