トタン

□吾輩は猫である?
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動揺だとか、そんなレベルでは無い感情が頭の中を駆け巡る。当たり前だ。誰がふと気が付けば自分が猫になっていただなんて直ぐに受け入れられるというのだろうか。この状況をハイソウデスカと受け入れられる人間…いや獣がいるのならお目にかかりたいものだ。

勿論私はこんなところで落ち着いてられるような奇異な獣では無いので、この状況にすっかり気が動転してしまって、痛む左手のことも忘れて立ち上がり、少し開いていた窓の隙間から外へ飛び出す。つまりこれはどういうことだ。外の空気が寒い。雪が冷たい。一目散に走った先は、自分が倒れた場所であろう、トタン屋根の下だった。

そう、確か私はここで気を失った。剥がれかけたトタンの屋根がパタパタと音を鳴らしている。味気も色味も無い世界。そんな今までの自分を呪いながら。

…今までの自分?

そこまで考えたところでふと我に返る。私は…どうしてこんなところで倒れていたんだっけ?とても身体が熱くて…寒くて。息も絶え絶えに、必死に何かから逃げていたような。

あれ?逃げてたって、何に?
というか…「私」って何だったっけ?

さああ、と身体中の血の気が引いていくような感覚が襲う。あれ?私もしかして記憶喪失ってる?いやまて、私の名前は…八代陽菜。うん、大丈夫、名前は覚えてるし生まれた場所や育ったところ、お母さんやお父さんの名前。…うん、覚えてる。

それなのにどういうことか、倒れた時のこと、そしてそれまでに至る経緯の部分がすっぽりと抜け落ちたかのように思い出せない。


ひょっとしてこれはまずいんじゃないか?かなりまずい状況になっているんじゃないか?


『……………』


なによりも寒い。いくら猫になって毛深くなってるとはいえ私からしたら裸に薄い毛布を纏っているようなものだ。巻かれた左腕の包帯からも赤い血が滲みだした。傷口が開いてきたのかもしれない。

…というよりこの怪我。そもそもこの左腕はどうしてこうなってるんだっけ。倒れる前…馬鹿みたいに血が出てたのは覚えてるけど…どうやったらこんな大怪我するのよ。私ってもしかしてヤンチャなの?ヤンチャなことやらかしてしまう人種だったの?


ていうかもうダメ…寒いし、痛いし、眩暈してきた…。
身体が重い。やっぱり死ぬときは同じ場所なのか…。


「やっぱりここにいたんだね。猫は家に帰るっていうけど…本当だったのか」


先程聞いたばかりの声を耳が受け入れ、視線を上げてみる。そこに立っていたのはホストのお兄さんだった。屈んで私の身体に積もった雪を払いのけてくれる。


「自然の動物を無理に家に縛りつけるのは嫌だけど…この怪我じゃね。せめてその左手が治るまでは家にいてもらうよ。このままじゃあ死んでしまう」


『ニャ……』


そのまま私を抱きかかえた腕は、力強く、そして温かく、今までにない優しさに満ち溢れていた。

…今までにない?

一瞬何かが頭を過ったような気がした。何かは分からない。だけど何か、冷たくて暗い…そして、カビ臭いにおい。

あそこのトタン屋根の廃墟の母屋からか、と思い直し、ホストの腕に身体をあずける。
別にまだ心を許したわけでは無いが、抵抗するよりはとりあえず、このホストについていった方がマシだろう。

私、これからどうなるんだろう…?
どうにもならないということはこんなにも不安になるのか。


「あ、僕の名前は安室透。って、伝わるか分からないけど」


ふーん…安室透さん、ね。
無意識のように頭を撫で繰り回される感覚が慣れない。つい頭を振って手を退かしてしまう。
…なるほど、猫が、というか動物が人間に好きかって扱われて嫌な気持ちが少しは分かった気がする。
ましてや知らない人にこうして触られるのは、あまり気持ちのいいものでは無い。

私のその行動に何かを察したのか、彼は頭を撫でるのはやめてくれた。
自分勝手に動物を飼うような人ではないと思い、少しだけ安心する。

本当、これからどうなるんだろう?

起きたら人間に戻っている、なんてことはないのだろうか。というかこれはもしかして夢なんじゃないだろうか。
だけど温かい腕の感触も、冷たい外気も、痛む左手も、これは夢ではないとしみじみ思い知らせてくるよう。

いつまでこの身体?一生?こうして猫のまま、言葉も分からず、伝えられず、人間としての幸せ…例えば結婚とか普通の生活とか。そういうの…全て果たせないまま死んでいくのだろうか。

雪のように降り積もる不安は、途方もないほどの絶望に苛まれてた。





171211

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