トタン

□目が覚めた翌日
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「ふー…寒かった…」


つい先程も眠っていた部屋に連れ戻され、再び温かい毛布の上に寝かされる。タオルで軽く脚や身体を拭かれるのはなんとも気恥ずかしかったが、この肉球ではなにもできないので身を任せるしかない。

猫なのだから触られるのはさしておかしくないのだろうが、そんなことを言ったって元は唯の人間なのだ。いくらお兄さんがイケメンだからと言って…、いや、お兄さんが超絶イケメンだからこそついついその手から逃げてしまう。

しばらく私の身体の水気を拭きとった後、ホスト…いや安室透さんがその場を後にした。ホッとしたような、何か心もとないような感情。ふうと大きく息を吐くと、漸く動転していた気が落ち着いたのか部屋の様子をじっくり確認することができた。


男の人の一人暮らしにしては中々に広い部屋だと思う。綺麗好きなのか、あらかたは片付いていて少し寂しさすら覚えるような殺風景な部屋だ。何にせよここがアパートの1階であるというのはありがたい。出入りが簡単にできるというだけで安心感が違う。

悪い人ではないの、かな…。

だって普通怪我した野良猫を治療目的だけで飼ったりする?しかも治るまで、だなんてそんなことしたって何の得にもならないだろうに。

うーん…しかしこの身体。本当にどうなってるんだろう?本当の本当に猫なんだろうか。しかし不思議なもので、歩こうとすれば勝手に四足歩行になっている。特に意識をしている訳では無いのだが、歩こうとすれば無意識にそうなっているのだ。何年も何年もそうしてきたかのように。

声は…言葉を出そうとしても、猫の鳴き声としてしか発声されない。喉の構造が違うからきっと無理なんだろう。しかしこれは本当にどういうことなんだろう。…元の身体に戻れるんだろうか。元の身体に戻ったらそれはそれでどうなるんだろう。抜け落ちた記憶はすっかり戻ってくるんだろうか…。


そんなことをぼんやり、考えていたらいつの間にかその日は眠ってしまっていた。









次に目を開けるとそれはもうお昼過ぎだった。色んな事があって少々疲れていたようだ。
起きたら身体が戻っている、なんてことを想像したけれど結局はそれも淡い夢に終わって、どう足掻いてみてもこの身体からは抜けられないらしい。

安室さんはどうやら出かけているらしかった。身体を起こして大きく伸びをすると、勝手に猫らしい伸び方になっていたので少し笑いそうになる。

…兎にも角にも、もう受け入れるしかない。いつ戻れるのか、なんて漠然とした未来のことを考え憂鬱になっていても仕方ない。今は少しでもこのことを受け入れ、理解し、解決策を探すのが一番だろう。

段ボールの中にふわふわの毛布を敷いただけの簡易なベッドだが、だだっ広い(自分が小さくなっているためそう感じるだけだが)部屋で眠るよりは断然安心することができた。遮蔽物が一枚あるだけで気持ちが全然違う。それに加えて左足の動かない私を懸念してか、出入口の部分だけ低めに作ってある。一晩でここまで作ってくれただなんて、安室さんには感謝してもしきれない。


左足を引きずりながらなんとかベッドから這い出して部屋を一望してみる。床がすぐそこでいつも腰の高さだったものが遥か高くに存在しているのはなんとも奇妙な感じだった。まるで巨人の国にでも迷い込んでしまったかのようだ。


いつも何も考えずに使っていたはずのキッチンも、なにか知らないもののようで少しだけ不安な気持ちになる。ふと視線を左にやると平たい器に白い液体が入っていた。近づいて匂いを嗅ぐとどうやらミルクらしい。どうしようか迷ったが手は肉球まみれで使えないし、恐る恐る水面に顔を近づけてみる。

…こんなの、人間の姿でやったらはしたないことだよなぁ。
恥ずかしい思いもあるのだが他に方法も無いのでぺろりと舌を出し、それでミルクを舐めてみた。

美味しい……。

そういえばこの姿になってから何かを食べたり飲んだりするのは初めてだ。倒れたのはいつだったっけ?少なくとも目を覚ましたのは夕方だったから倒れたのはその前で…ほとんど丸一日飲まず食わずだったという訳だ。

一度やってしまえば同じことで、ぴちゃぴちゃとミルクを舐めるのに不思議と夢中になっていた。人間とは違う、ざらざらした舌がミルクに触れるとおもしろいくらいに液体がするりと口の中に入ってくる。
夢中になってそれを続けていると、気が付けばすっかりミルクは無くなっていた。皿の底の、最後に一滴まで綺麗に舐めて食べつくす。皿に舌が付いた時、一瞬はしたないことだと思ったがこの姿では大した問題でもないように感じたし、何よりもそんな恥じらいを大きく上回るほどそのミルクは美味しく感じられたのだった。


ミルクの時間を終えてから少し部屋の中を探索してみたが、特に目ぼしいと思われるものは無かった。起きてすぐの頃はやけに地面が近いのと、なんでも大きく見える世界が不思議に思えていたが、直ぐに慣れた。人間とは(今は猫であるが)順応する生き物らしい。

特にやることもないし、窓の鍵は締まっていた。まだ怪我が良くないから脱走しないようにしているのだろうか。外に出てみたいという好奇心もあったが、今は前足の痛みと不安感の方が勝っていた。それに、安室さんを完全に信用した訳ではないが、この姿で外を当ても無くうろつくよりは、ここにいる方が安全に違いないだろう。

ベッドに戻り、ぼんやりと襲ってくる眠気に逆らわず微睡の世界に堕ちる。なんともまったりとした時間が流れるものだ。人間であったとき、そういえば猫はいいなと思ったことがあったような気もするが、確かにこんなゆったりとした時間が手に入るのなら存外猫も悪くはない。

温かくなるからだと、やけに安心できる、私の邪魔をしない安室さんの匂いと、満腹感と。久方ぶりに少しだけ安心して時間を過ごす。

幻と現実の間で私は夢を見る。



暗い、暗い…ここは、あそこ。

いつもの…私の。

またひとり、誰かの、この世の終わりのような、正に断末魔と呼べるもののような…。




がちゃん、と扉の音がして眠りから覚める。
軽くなった身体を起こして部屋を見てみると、安室さんが帰ってきたらしかった。





171211

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