トタン
□見つめてみる
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やはり警戒心とはそう簡単に解けないもので、簡易ベッドに隠れる。姿は見えないが、スーパーの袋の音が聞こえる。当たり前なのだが、普通の生活音に安堵する。
男と言ってもただの一人暮らしなのだ。普通じゃない訳がない。と、軽く落ち着いていた時ににゅっと顔がベッドを覗き込んできたから、あまりの圧迫感に文字通り全身の毛が逆立った。
「はは、そんな怖がらないでくれよ。ちょっと怪我、診るよ」
いや怖がっている訳ではなくまだこのサイズ感に慣れていないだけなのだが、この身体だと本能と行動が直通で怖いと思えば身体は飛び跳ねてしまうし、毛は逆立つし、全くもうなかなか思い通りにならない。
安室さんは手慣れたように私の左手の包帯をとった。傷の具合を診てから消毒液を吹きかける。少しそれが沁みてしまってびくっと思わず手を引っ込めそうになったが強い指で抑えられできなかった。勿論、怖くないよというように頭を撫でるのも忘れずに。
傷の具合はどうだろう。痛みはそっとしておけばそこまで痛くはない。歩くときに軽く痛みが走る程度だ。安室さんはなにやら真剣な顔つきで私の怪我を診ているように、見えた。言葉の通じない私には、その仕草がやけに重いものに見えてやたらと不安感を煽る。
私の怪我、どうなの?
言葉が伝わらないことを初めてこんなにも不便だと思った。お願いだから、黙り込まないで。払拭されない不安は塵のように積もっていく。話したい。聞きたい。こらえきれず漏れた声は、やはりにゃあといった猫の鳴き声だった。
安室さんはゆったりとした動作で瞳をあげた。その時はじめてこの人と「目が合った」と思った。私は大丈夫なの?と思いながらじっと安室さんを見つめ返す。スカイブルーの綺麗な瞳。その瞳が優しげに緩んだ。
「大丈夫。直ぐに良くなるよ」
そう言いながら頭を撫でて、安室さんはその場を離れた。時が止まったような感覚が身体を襲う。ぼおっと世界がオレンジ色に染まる。心臓がどきどきしていることに気が付いた。
伝わった…。
言葉が無くても、伝わった。
無論、このドキドキは恋とかそんなのではなく、ただ思いが伝わったということに感動しているだけなのだが、それでもやっぱり嬉しくて心地よい胸の高鳴りを感じながら再びごろんと横になった。
ピリリ、ピリリ、と無機質な音が響き反射的に顔をあげる。が、安室さんの携帯の音だと分かり顔を元の位置へと戻した。
「もしもし…ベルモット」
ベルモット?電話の相手は外国人だろうか?
「ええ…え?第8ラボが?事故ですか?ああ…実験のミスで…」
実験?ラボ?安室さんは何をしている人なのだろう?
特に聞き耳を立てている訳では無いが、耳が良くなっているのか勝手に聞こえてくるのだ。
尤も、相手の声までは聴きとることはできない。ただ、女性の声というのがなんとなく分かる程度で。
「ホー…被験者を米花町辺りで見失ったと…。で…その被験者というのは…」
何の話をしているのかさっぱり分からない。
「分かりました。それくらいの背格好の女史を見つけたら連絡しますよ。でも…それ一昨日の話でしょう?そんな目撃者があればとっくに噂になっていると思いますけど…。…つまり、誰かに匿われていると?そんな見ず知らずの人間を騒ぎにもせず保護する人…いますかねぇ…」
なんとか話の流れを推測しようとしたがここまでで諦めた。さっぱり分からない。
見ず知らずの猫を保護している人ならここにいますよーと呟いてみたが微かに喉の奥が鳴っただけだった。
安室さんはそこからもごにょごにょと何かを話していたが聞き取る気も失せ、早々に眠りにつこうとする。とりあえず今日は、気持ちが伝わって良かった。それだけで充分だ。
電話の切り際にバーボン、と呼んだ声が聞こえた気がした。お酒の名前?随分変わった名前なものだ。ということは…あだ名みたいなものだろうか。
そんなことを考えながら、ベルモットと呼ばれる女の人のことを夢想して、その時も直ぐに眠りについた。
180101