トタン

□キーパーソン
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「ミルク、いるかしら?」


特に喉が渇いていた訳では無いのでふるふると首を横に振る。女の子に連れてこられた先は大きな家の地下にある部屋。パソコンやら試薬やら試験管やら色々なものがそろっていてまるで小さな研究室のようだ。
様々な薬品の匂いが入り混じった独特の匂い。猫になって嗅覚が鋭敏になっているからかあまり気分の良いものでは無い。それに、この匂いを嗅いでいるとどことなく落ち着かない気分になってくる。本能というか第六感というか、なんとなく警戒が解けない、みたいな。


「…改めて。私の名前は灰原哀。よろしくね」


なにやら机で書き物をしていた女の子…哀ちゃん、が漸く顔をあげ、こちらに向き合った。じっと端から端まで観察されるような目つきにもじもじする。哀ちゃんが私の前に紙を広げる。そこには五十音と小文字、数字が簡易に記されていたのだった。


「そうね…何から話しましょうか。とりあえず、あなたの名前は?」


哀ちゃんが紙をとんとんと叩く。なるほどこの文字盤を触れと言うことだろうか。確かにこれならなんとか会話が成立しそうだ。

“八代陽菜”

嘘を吐いても仕方がないと思い、正直に自分の名前を前足で抑える。それから暫く性別は、とか、年齢は、とか、個体としての基礎情報を収集され、最終的にこうなった経緯を聞かれたがその部分は分からないと首を横に振った。


「一部記憶障害あり、か。………」


哀ちゃんはじっと何かを考えているようだった。この子は何者なのだろうか。まず普通の小学1年生ではないことは分かる。なんか大人の女の人が、そのまま子どもの姿になった感覚。既に私の中でこの子は「コドモ」の範囲を逸脱している。
キーパーソンだ。この子は私の何かを知っている。それもきっと、それなりに核心に近い部分まで。
知りたいという好奇心の反面、少し怖いという気持ちもあった。常識外れのこの現象はいったいなんだというのだろうか。


「あなたがその姿になったワケ、知りたい?」


哀ちゃんはその気持ちを察してか私に問いかけてきた。一旦は曖昧に頷いてみる。哀ちゃんも私の様子を見て言葉を選ぶように少しだけ思案してから話し始めた。


「…まずね、私のことだけど。私は薬の力で幼児化し、こんな姿になってるの。奇々怪々な話だけど、今のあなたなら信じてくれるでしょ?」


こくんと頷いた。今やそんなこと別段可笑しな話でもない気がしてくる。寧ろその方が彼女の場合しっくりくると言ってしまってもいい。


「私は元々ある組織の研究員だった。もう逃げ出したけれどね。その結果がこのザマってわけ。…で、私がまだそこの研究員だったとき…他の研究所で別の研究が進められていたわ」


背中の辺りがざわざわしてくる。研究、研究、研究…その言葉、何か嫌な感じがする。


「私はその研究に携わってたわけでは無いから詳しくは知らないけれど、一度そのデータを見たことがあるの。その時はマウスでの動物実験だったけど…」


哀ちゃんが私に手を伸ばした。びくりと身体が縮こまるが逃げられない。恐怖が身体を占領する。そう。いつもそうやってあなたたちは。


「この独特なまだら模様。青みがかかった瞳。毛の質感。…あの時ほとんどのマウスで死亡が確認されていたけど、1匹だけ生き残ったマウスの症状にそっくりなの、あなた」


頭を撫でられた手が、意外と温かくて優しくて緊張が解かれていく。哀ちゃんは柔らかな目をしていた。


「あなたがどうしてその薬と同じ症状がでているのか、薬を飲んだのかは果たして分からないわ。戻れるかどうかも分からない。…だけどもし、あなたが私を信用してくれるなら私なりにあなたの身体のことを調べることはできるけど」


どうする?目で語りかける彼女。私は私で彼女を信用しきっていいのか分からなくなっていた。あまりに一度に真実を聞かされたからかもしれない。だけど。

ここでこの子に頼らなければ、私は自分では何も突き止めることができないだろう。ともすれば一生このままなにも謎が解けずに死んでいくのかもしれない。それだけは嫌だ。…絶対に。


『…ニャ』


お願いします、という意をこめてお辞儀の真似事をしてみる。哀ちゃんはその姿をみてふっと軽く微笑んだ。


「そう。ま、無理強いはしないわ。基本はあなたの意志に任せるから心配しないで。ただ、ひとつだけ。あなたが人間であるってことは私以外に知られちゃいけないし悟らせてもダメ。守れる?」


こくん、と頷いた。確かに人間が猫になったなんて世間に知られるのはリスクが大きすぎる。
一通り話を終えると空気がふっと軽くなった。哀ちゃんがひとつ伸びをしたので私も伸びをする。少しだけ身体も軽くなったような気がしてくる。
研究、研究員。その言葉は何か嫌いだ。なんだか自分勝手な感じがするから。いつだって研究する側が上で、研究される側は好きなように弄ばれるだけ。そういったイメージが定着していたから。
だけど哀ちゃんは少し違うようだ。本当に私のことを考えてのことなのかは分からないけれど、無理強いはしない、って言葉には確かに心が込められていた。


「私は大体この家にいるから、何かあったらここに来たらいいわ。この家にはもう一人しか住人はいないし、あまり警戒する必要はないから。ただ、私の隣に住んでいる男には気を付けて」


扉を開け、歩きながら話をする。玄関までついてきてくれるらしい。


「次からはいる時は裏口からきなさい。その身体ならダクトを伝ってはいれるから。…じゃ、またね」


姿が見えなくなる前にくるりと振り返りありがと、と頭を下げる。そろそろ安室さんは帰ってきてるだろうか。なんて別のことに気が向き始めたときに去り際ににやにやとした哀ちゃんの声が聞こえた。


「あなたの身体は猫になっているのか。動物が駄目なものがあなたも駄目なのか。内臓の配列は?血液は?調べたいことが山ほどあるわ。とても興味深いから、待ってるわね」


…やっぱり研究員こわい。



180213

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