トタン

□キャットフード
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朝日も昇りつつあり、身体も十分に覚醒した午前6時。私は自身を動かすことができないでいた。

何故かというと。


『……………………』


「…………ん…」


頭上すぐ上から聞こえてくるのは規則正しい寝息。その呼吸に合わせてお腹が上下に揺れている。心臓の鼓動はゆっくりと滑らかなリズムを奏でている。…そう。私の命の恩人である安室透さんが、あろうことか私を胸の前で抱きしめ眠ってしまっているのだ。


どうしてこうなっているのか、そういえば確かに夜、もう私が寝ぼけているときにふわりと体が持ち上がったような、そうでないような記憶があるような気がする。つまりそういうことだろうか。要するに私は自分のベッドで寝ていたが、安室さんの気の向くままにベッドまで運ばれ、寝床を共にしているということだろうか。

というか、そんなことは実際どうでもいい。一番拙いのはこの状況だ。どうしよう?安室さんは気持ちよさそうに眠っていて起きる気配はない。いくら今が猫になっているとはいえ私だってただの女の子なのだ。こんなイケメンな男の人が無防備に眠っていて、しかも力なく私の体に腕を乗せているとなるとドキドキするなという方が不可能だ。しかもやっぱり、安室さんは清潔に甘い良い匂いがするし。

ゆっくりと刻む安室さんの心音に反して私の心音は異常に速くなっていく。ああダメだ、ドキドキする。こんなことに耐性なんてもってない。私は出会って数日の男の人に甲斐甲斐しく世話をされ、一緒に眠りドキドキしないほど男慣れしている人間(猫)じゃないのだ。

もぞ、と安室さんが動いた。少し体勢が変わって逃げられるかもと思ったのだが腕で体ごと押し上げられ突然安室さんの顔が私の顔の前にズームアップされる。私の体はみるみる硬直する。心臓がつられて激しく動く。ど、ど、どうしよう…!顔が…!安室さんのい、息が…顔にかかって…!!


『ぅ…にゃっ…!』


悲鳴のように絞り出した声と、思わず安室さんの腕に立ててしまった爪。安室さんの瞳がゆっくりと開く。薄いブルーのその瞳はまるで、夜明け前の空のようにも見えた。


「ん…んん…っ!」


安室さんがベッドの上で体を伸ばす。そこでようやく私を抱いていることに気が付いたようで、私が嫌がっていることにも感づいたのか慌てて手を離した。

解放された瞬間さっとベッドから逃げ出し、リビングへと駆け込む。安室さんの元から離れてもまだ、心臓のドキドキが止まらない。自分のベッドに戻り、身体を丸めてみても落ち着きは取り戻せそうになかった。息が苦しくなるくらい舞い上がってしまっている。

安室さんがリビングに入ってきたがそちらの方は見ないようにした。今お着換えのシーンなんて見ようものならそれこそ心臓に悪い。私の懐はそんなに深くないし図太い神経もしていないのだ。
少しずつ気持ちが落ち着いてくる。姿は見えないけれど、生活の音が耳に流れ込んでくる。足音。お湯を沸かす音。コーヒーを淹れる音。トーストが焼きあがる音。お皿の音。…すべてがあまりに日常に溢れた何気ない音ばかりで落ち着く半面少しだけ寂しい気持ちも覚えた。

その寂寥に駆り立てられるまま身体を起こし、安室さんの元へと向かう。安室さんは私をちらりと見ると、皿を出し、カラカラと音を立ててご飯を用意してくれた。今日のご飯はカリカリのキャットフードだ。これを食べることになるとは、自分が猫である自覚が改めてじわじわと湧いてくる。

人の食べないモノを食べるのは、実は初めてだったりする。そういえばこの身体になって考えたこともなかったが味覚ってどうなっているんだろう?ミルクや煮干しを食べたときはあまり違和感を感じなかったけれど。とりあえずカリカリのキャットフードの匂いを嗅いでみる。チキンのような、穀類のような、なんともいえない匂いがする。別段臭いとも感じなかったがやはり煮干しのほうが食欲をそそられるものだと感じた。例えるならばキャットフードは米やパンなどの主食。煮干しなどはメインディッシュといったところだろうか。

この身体になってしまった以上、これを食べないわけにはいかないだろう。決心して舌でそれを掬い何粒か口に入れ、かみ砕いてみる。うん。…まぁ、意外と悪くはない。滅茶苦茶に美味しいというものではないがずっと食べていられる味だ。


「ごめんよ。苦しかったかい?」


安室さんの声が降ってくる。どうやら寝ながら私を潰しそうになったことをよっぽど気にしているらしかった。もういいから蒸し返さないでくれと言わんばかりに安室さんを見上げるとくしゃくしゃと頭を撫でられたものだから落ち着いた心拍数が再び上がってしまった。

暫く頭を撫でまわすと安室さんは自分の生活の中へと戻っていった。私はそれに邪魔しないように、そっと横を歩いて自分の時間を生きていく。

窓の外では新しい朝を迎えた世界が呼吸をし始めている。さて、今日は何をしようかな…。




180406

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