トタン

□雨音の中に
1ページ/1ページ




目が覚めて、欠伸をして、毛繕いして、キャットフードを食べて。

さて今日は何をしようと考えたのも束の間、ふと安室さんが視界の端で身支度を整えているのを見過ごした際に思いついた。


…安室さんって、普段何してるんだろう?







ばたん、と扉が閉まる音を聞き終えてから私も窓から部屋を抜け出す。玄関の方に回ろうとしたけれど安室さんはこちら側の通りまで回ってきたから木の陰に身を隠す。

今からどこにいくんだろう?何するんだろう?

それは純粋な興味本位。安室さんの日常リズムは割と不規則だ。この時間に出ていくこともあれば、昼過ぎまでお家にいることもあるしラフな姿の時もあればスーツ姿で出かけることもある。

そういえば確か…電話で女の人と話していたっけ?
それから寝言で苦しそうに呼んでいた「スコッチ」
研究室がどうとか話していたこともあったし酷く疲れて帰ってきたこともあったし、安室さんが何をしているのか皆目見当もつかない。
肉球をフルに利用して足音を消してみたり、ひげで周りのものとの距離を測ってみたり。こっそりと獲物を追いかける、まるで本物の猫にでもなったような気がしてドキドキしてくる。

それにしても、安室さんは普通に歩いていてもただのイケメンだとしみじみ思う。歩き方ひとつとってもさっさっと歩いてスマートだし、不躾にきょろきょろもせずまっすぐ前を見据えて、優しそうなのに瞳の奥は油断ない。
朝の通勤時間なんて皆憂鬱そうに視線を下げて眠そうな顔でぼおっとしてるだけに、しゃきっと歩く安室さんはそれだけでイケメンに見えた。
心なしかというより確実にすれ違う女子高生がちらちらと安室さんを見ているのが分かる。そりゃそうだ。もし私がすれ違う女子高生Bなら安室さんを凝視していたに違いない。そんな安室さんの着替え姿や、眠った顔を知っていることが何故が酷く誇らしいことに思えた。
私は安室さんの隣を歩くことができるのだ。…塀の上からだけど。

安室さんが角を曲がり、大通りに出る。私はなるべく影を縫って安室さんについていく。
安室さんはそのまましばらく歩くと、ある喫茶店の中へと入っていった。開店前の喫茶店だったからきっと安室さんはここの従業員なんだろう。アルバイトかしら?正社員だとすればちょっとリズムが不規則過ぎるよね。

兎にも角にも今日は安室さんのある一面を知ることができた。他にもいろいろしているんだろうが、今日はこのくらいで充分だろう。
扉に備え付けられたベルの音が鳴る。安室さんが箒と塵取りをもって出てきた。掃き掃除をしている姿ですらスマートだ。もう少しだけ眺めていよう。家とはまた違う、外の世界での安室さんの姿。
もう一度カランコロンと音を立てて扉が開いた。中から安室さんより少し年下くらいのタレ目っぽい女の人が出てきた。この人もここの喫茶店の従業員だろうか。安室さんと一言二言会話を交わしてはくすくすと笑い合う。会話は断片的で何を話しているかあまり分からなかったが、その女の人はどうやら「梓」という名前のようだ。
二人は暫く談笑した後喫茶店の中へと入っていった。多分もう外には出てこないだろう。

空かない扉をぼんやりと眺めてから方向を変え私も歩き出す。なんだか分からないけどモヤモヤする。何をしようかな、なんて考えてみてもふうと出るはずのないため息が肺の奥からせりあがってくるだけ。
安室さんの梓さんが仲良く話している姿が、目の奥に焼き付いて離れてくれない。
そりゃ、猫である私とは違って安室さんは人間だし、安室さんには安室さんの生活があって女の人と話したりなんて日常茶飯事なんだけど…。
安室さんに彼女がいたって…私には関係ない話だし。
なのになんで…こんなに…。

ぴちゃり、頭の上に何かが落ちてきて身体が跳ねあがった。冷たい…!ふと見上げると大粒の雨が降り注いでいた。私は逃げるように足を前に出し続ける。
雨が冷たい。身体が冷えていく。当たり前だ。こんな真冬の、冷たい雨に打たれて寒くならない訳がない。身体を覆っていた毛にどんどん冷ややかな水滴が沁みてくる。
どこに帰ろう?安室さんの家にはなんだか今は…帰りたくない。

雨を含んだせいか、やたらと身体が重い。風邪を引いたのだろうか。猫が風邪を引くのかどうか分からないけれど。
訳が分からない感情に苛まれ、闇雲に走り回りついに辿り着いた先は哀ちゃんの家だった。裏のダクトの隙間から入り込み研究室へと向かうと哀ちゃんは研究室でパソコンを触っているところだった。


「……あら?」


私に気がついた哀ちゃんが手を止め振り返る。直ぐにふかふかのタオルを持ってきてくれて、ぐちゃぐちゃに濡れた私の身体を優しく拭いてくれる。


「どうしたの。まるで濡れ鼠って言葉がピッタリね」


わしゃわしゃと拭かれるたびになんだか気持ちが昂ってくるような気がして、だけど今の私にはそれを示す手段が思いつかなかった。


「少しは猫の姿に慣れたかしら?」


こくん、首を縦に振る。確かに慣れた。だけど、慣れたからこそ。


「それでもここに来たってことは…」


にゃあ。声が漏れる。私は。


「人間に戻りたいのね。八代陽菜さん」


久しぶりに名前を呼ばれた気がした。私が動かなければ、何も始まらない。正直今は、人間に戻れば何がしたいとか具体的な目標がある訳では無かった。
だけど、今に私は人間に戻りたくて仕方が無くなると…何故かそんな予感がしたから。


「あなたの身体に少なからず負担はかかることになると思うわ。それでも…やってみる?」


私は不敵に笑う、苦手な「研究員」に全てを任せることにした。





180424

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ