トタン

□What's your name?
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「おはようございます、梓さん」


「あら、今日は早いんですね安室さん。すぐに着替えてきますね」


「いえ、オープンまではまだ時間がありますしゆっくりでいいですよ!」


今日も今日とてポアロの植込みの草陰から安室さんの様子を伺っているのだが、決して私はストーカーという訳ではなく。


「ん、…あれ?」


私がここまで来た理由でもあるそれを探すようにポケットを弄る安室さん。そのタイミングを見計らってのったりとした調子で安室さんの前へと私は足を進める。

安室さんは私を見て驚いたように目を見開いた。
そうなるのも無理は無い、私の口には安室さんの忘れ物であるスマホがしっかりと咥えられていたのだから。







私の元へと駆け寄る安室さんを見てから足元にスマホを落とす。衛生的には良くないのかもしれないがそこは目を瞑ってほしい。ちなみに傷はつかないように咬む力はしっかりと加減してきたつもりだ。これが結構難しかったりする。
安室さんは少しだけ嬉しそうにはにかんだように見えた。スマホと私を交互に見て、君は不思議な猫だねと呟く。さあ頭を撫でなさい誉めなさいと言わんばかりの目で見つめると、仕方ないように笑って安室さんは私の頭を撫でくり回した。

ああ幸せ。気持ちいい。
そんな私の幸せな時間は、からんころん、と開いた扉の音にかき消された。


「遅くなっちゃって!後の掃き掃除私がやります!」


「ああ、もうあと少しだけですしいいですよ」


「そんな、すみません、じゃあ私中の作業を…あら?可愛らしい猫ちゃん。大尉の友達ですかね?」


「あぁ、いや、この子は……」


ちぇ、せっかく二人の時間だったのに…なんてね。
私を撫でるのをやめ、梓さんとのお喋りに夢中になっている安室さんを見上げる。…いいもん。別に。私はあなたのように安室さんとお話はできないけれど、安室さんの眠った顔を、逞しい身体を知っているんだから。

会話の途中で安室さんが笑う。私には見せないような笑顔を梓さんに、他の人に向ける安室さんは何か別の知らない人のように見えた。
私はこんな簡単に安室さんを笑わせることはできない。安室さんにありがとうって示すのだって一苦労だ。こうして忘れ物を届けたり悪夢にうなされていたら起こしてあげたり、そんな地道な方法でしか恩を返せないのだから。

少しだけ、遠いかな。

私の何個分も高さの違う二人の、人間の世界。人の目から見る景色は忘れてしまったけれどきっと今の私よりもずっと見晴らしがいいんだろう。こんなにも窮屈ですべてに圧迫されるような私の視界とは違って。


「あー!!あの子、この間の猫ちゃんじゃないですか?!!」


「ホントだー!!ポアロの猫さんだったんだ!」


「お早う君たち。今から学校かい?」


「オウ!安室のにーちゃんと梓ねーちゃん、おはよう!!」


げ、げ、げ……!

かつて私を追いかけまわした子どもたちが私の前に現れ、私は反射的に安室さんの後ろへと身を隠した。子どもたちはなんとか私を見たいのか安室さんのまわりをくるくると追いかけっこ。疲れた私が安室さんに軽く爪を立て助けを求めると何かを察したかのように安室さんは抱き上げてくれた。


「安室さんにすごく懐いてるんですね」


「うーん、元々野良猫だからちょっと初めての人には警戒心強いのかな」


「あら、そうだったんですね。この子、安室さんの猫ですか?」


「うーん、いや、そういう訳じゃないんですけど。ただ僕の家に最近住み着いてて」


うん……うん?
なにか心に引っかかるものを感じながら、だけどそれは安室さんに抱きかかえられている幸福感ですぐにかき消された。
安室さんの腕はとても力強くて、私を軽々と抱き上げ胸の下に収めてしまう。安室さんの香りと、エプロンからはコーヒーの匂い。新しい安室さんの香りを知ることができて、嬉しい。


「仲良しさんなんだね!ねぇ、安室のお兄さん、この猫ちゃん名前はなんていうの?」


「え?」


名前?と安室さんは目を丸くさせた。少し考えるような仕草をして言葉を続ける。


「そういえば考えたことなかったな。名前か」


「困らないの?」


「まぁ…別に飼ってる訳じゃないしね。僕のものでもないのに名前をつけるのも…なんだかなぁ」


…なに、それ。
先程まで影を潜めていた不穏が一気に心を覆いつくした。ああそっか。さっきの心の靄も結局そうだ。


「じゃあ、歩美が名前つけてもいい?この子はタマ!!」


「タマ…ですか?ちょっとありきたりじゃ…」


「えー、だって三毛猫っぽいしなんだかタマって感じがしない?」


違う。違う…。私は、私の本当の名前は…!!
急に嫌になって、逃げだすように安室さんの腕で暴れると素直に安室さんが解放してくれたことですらなんだか悲しかった。嫌なのは私なのに、逃げ出したかったのも私なのに。…本当に逃げられると寂しくなるなんてめんどくさい女だな。いや、今は猫か…。

みんなの話し声を背にその場から逃げ出す。なんだかあそこにいたくない。あそこにいればいるほどみんなが遠くなってしまう。ただの猫になってしまう。
少しの怖さを含むその感情を持て余す。どこにいこう?どこに逃げよう。自然と哀ちゃんの家の方に自分の足が向かっていることに気が付いた。とにかく今は逃げよう。このこわい気持ちに覆いつくされてしまう前に。

哀ちゃんの家の、ダクトの方に向かう途中で煮干しのいい香りがした。
私はその匂いに誘われるように、哀ちゃんの家の隣の…変装お兄さんの家に向かった。




180628

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