トタン

□試作品
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どくん、と破裂しそうなくらい大きく心臓が鳴った。
身体の内も外も、中心も先端もすべてがちりちりと灼けるように熱くなっていく。
あぁ、私はこの感覚を知っている。
あれはそう、真っ白な世界と、鈍色の空。冷たい風。燃える躰。
たしか、あれは、トタン屋根の下で――――。





そもそもどうして私がこんなことになっているのかというと、それはつまり、自分の陰に押しつぶされそうになって哀ちゃんの家に行った話から始めなければならないのだけれど。
今朝の私は特にやることもなく、安室さんも朝からポアロに行ってしまって時間を持て余していた。
安室さんに続きポアロについて行っても良かったのだが最近はその行動を避けるようになっていた。理由はいくつかある。ひとつめは、子どもたちと出くわすかもしれないこと。ふたつめは、よそ行きの安室さんを見るのは知らない人を見ているみたいでとてもむず痒い気持ちになること。そして、みっつめ。梓さんと安室さんの並んだ姿を見るのは辛くて痛くて、みじめな気持ちになってしまうことだ。特にこのみっつめはいただけない。あの二人を見ると自分がこの姿であることを思わず呪いたくなってしまう程に人間が羨ましく見えてしまう。
私だって、安室さんと話したい。からかわれたい。「もうっ!」って言ってその逞しい胸を冗談交じりに叩きたい。それが叶わないならお客さんとしてでもいい。からんころん、ドアベルが鳴る。安室さんが作業の手を止めて入口を見る。いらっしゃいませ。おひとり様ですか?こちらへどうぞ。座った私に安室さんが近づいてきて声をかける。お飲み物は何になさいますか?本日のおすすめはウインナーコーヒーとパンケーキのセットですが。

…なんて普通に考えれば心が躍るようなことでもない、ごく当たり前の光景だ。だけどそれは人間にとっての話だ。猫である私にはあまりにも遠い別次元の出来事のように思える。すべてはこの体のせいだ。そんなことを考えていたらじっとしていられないような気持ちになって、思わず家を飛び出した私は行くあてもなく哀ちゃんの家へと向かっていた。

幸せな瞬間と、不幸せな瞬間は交互にやってくる。ほんの数日前は安室さんのベッドで眠れるだけで幸せな気持ちになれたというのに、今は少し気を抜けば色んな不安が私を襲いかかる。そうやって世界はバランスをとっているのだろう。光があるところには必ず陰ができてしまうように。そして光が強ければ強いほど陰は色濃く地面に闇を落とす。

太陽の光から隠れるようにダクトから潜り込み直接地下室に向かうと、哀ちゃんは待っていたかのように私の方を振り向いた。そろそろ来るんじゃないかと思ってた、と私の頭を撫で付ける。そして大人の女性の様な落ち着いた少し低い声で、私の目を見て呟いた。


「ちょうど人間に戻る薬の試作品1号ができたところよ。死ぬかもしれないけれど…やってみる?」


そして話は冒頭に戻る。死ぬことに対しての恐怖は不思議となかったような気がする。いや、正確に言えば無かった訳ではないけれどこのまま猫として生きていくことに大きな意味を見つけられなかっただけだ。
哀ちゃんに言われるがまま、粉末状の薬が溶かされた水を飲みきるとすぐに体に異変が現れ始めた。哀ちゃんは私を観察しながら、痛い?とか、熱い?とか聞いてくる。私はその度に首を横に振ったり縦に振ったりしながらじっとその瞬間を待った。

そして私の意識は一瞬途切れ、次に目を覚ましたらやっぱり哀ちゃんの部屋で、エネルギーを消費しきった頭で自分の状況を考えようとした。私はどうなった?とりあえず死にはしなかったようだけれど。身体を動かしたいのに神経の信号がそこに行くまでに途切れてしまうようだった。
床が近い。どうやら私の身体は地面に突っ伏しているようだ。暗い部屋に目が慣れない。高い位置から降ってくるパソコンの光が目に眩しい。


「お疲れ様。…気分はどう?」


焦点の合わなかった頭と視界が徐々に馴染んでくる。目の前に肌色の人の手が見えた。白くて少し小ぶりな女性の手だ。誰の手だろう。ぐっと力を入れると半分開いていた手がぎゅっと縮まり、ピンク色の爪が私の方を向いた。


『………。悪くないかな』


久しぶりに聞いた自分の声は、違和感と不自然に包まれながらもとても懐かしいものだった。




190118

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