トタン

□外の世界へ
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熱が少しずつ引いていくのを待って、とりあえず寝ころんだまま四肢を動かしてみる。
うん。…問題は無さそうだ。
ゆっくり、ゆっくり時間をかけて身体を起こすと、地面がやたらに遠く感じて一瞬眩暈がした。


「大丈夫!?」


『う…うん…。なんだか、からだの感覚に頭がついていけてなくて…』


頭が重い。だけど、気分は悪くない。身体を起こすと自分と同じ目線の高さにある哀ちゃんと目があった。


「とりあえずは成功のようね。こんにちは、…いや、はじめまして。八代陽菜さん」


『あ、えっと、は、はじめまして?哀ちゃん?』


名前を呼ばれたのが随分と久しぶりに感じる。なんだか、実感が湧くようで湧かない。こうしていざ人間の体に戻ると、先ほどまで猫であった事実がなんだか遠い夢のお話のようだった。それこそちょっとの間、わるいゆめを見ていただけ、みたいな。
けれども見覚えのある部屋も、哀ちゃんも、床に置いてある水の入っていたトレイも、そのすべてが猫であった事実を否定していた。そういえば、この薬というのはつまり完全に人間に戻れたということだろうか。


『ね、ねぇ…哀ちゃん。この薬って』


「そうね、効き目は6時間ってところかしら」


ですよね。勿論時間の制約付きですよね。なんてあからさまに落ち込む私を見て哀ちゃんは呆れたように笑った。


「今日のはまだ試作段階なんだから我慢しなさい。不用意に出歩いても駄目よ。街のど真ん中で突然猫に戻ってしまうかもしれないんだから」


『え、えぇ…、じゃあ、この部屋に一日閉じこもりってこと?』


「そうね。まぁ、軽く変装して家の近くくらいならいいけど…。あなたはあくまで追われている身ってことを忘れないように。あと、早くこれ着なさい」


『うん…ってうわぁあああ!!』


哀ちゃんにパーカーを渡されてようやく気が付いた。当たり前だが、猫の時のまま体だけが人間になったのだ。服なんて着ているわけもなく何よりも今までそれに気が付かず全裸のまま哀ちゃんに向かっていた事実が恐ろしい。


「外、出たい?」


もそもそと黒いパーカーに腕を通していると哀ちゃんが優しい調子で聞いてきた。外に出たい?考えてみる。勿論出てみたい、とは思う。それは久々にこの身体を動かしてみたいという興味に近い。だけどそれだけなら危険を冒してまで外に出る必要はない。この家の中を歩き回るだけでもいい。
まぁ、この身体で久々に外の空気に当たるのも悪くはない。ゆっくりと哀ちゃんに向かって頷くと哀ちゃんは柔らかな微笑みと共に私に帽子とマスクを差し出した。


「これはつけておいて。家の近くだけだからね。あと」


哀ちゃんは真剣な面持ちで視線を合わせる。そんな目で見つめられると思わず背筋が伸びてしまう。


「喫茶ポアロ。あの辺りには近づかないように」


『え……?」


嫌な気配が全身に立ち込めた。どうして?という言葉が喉元まで込み上げたけれどそれは哀ちゃんのどうかした?という一言でたちまち引っ込んだ。どうして、と聞けば、きっと哀ちゃんはそれを聞く理由を聞いてくるだろう。そうなれば私は安室さんに飼われていることを話さなければならない。そして何故かそれは哀ちゃんに話してはまずいことのような気がした。

マスクと帽子をつけ、服は哀ちゃんに借りてドアの前に立つ。ドアノブに手を付ける感覚がやたらと新鮮だ。かちゃりとドアをゆっくりと開けると、懐かしい世界が私の前に広がった。
冷たい風が頬を突きさす。私を守る柔らかい毛は今はもう無い。自分の身体にもう一枚毛布を巻いているような包まれている感覚ではなく素肌に空気が晒されているのが怖くもあり、嬉しくもあり、色んな気持ちに苛まれて身体の底からぶるりと震えが湧き上がった。


「いってらっしゃい」


『…うん。いってきます』


小さく手を振る。一歩踏み出したその先には、やたらと見晴らしのいい米花町が私のことを迎え入れた。





190130

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