トタン

□猫と私と世界
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一歩ずつ確かめるように歩みを進める。地面が遠くて遮蔽物より上を見渡すことができる。
広い世界だと思った。同時に狭い世界だとも思った。
一歩踏み出すだけでこんなにも進むことができるなんて。見晴らしはとてもいいのにこの調子ならすぐにどこにでも行けてしまいそうだ。
まずは、哀ちゃんの家の周りをぐるりと一周。誰かに会わないかと曲がり角に差し掛かるたびにドキドキする。人と会うことなく、ほとんど一周すると最後に赤井さんの家の前に差し掛かる。それにしても本当に大きな家だ。人間に戻ったからこそこの家の大きさがよく分かる。猫の時は何もかもが大きすぎて具体的にどれほど大きいのかあまり分からなかったのだがこうして見ると明らかに他の家とは大きさも、雰囲気も何もかもが異質だった。まぁ、住人の変装癖(?)のある赤井さんだって十分異質なのだが。
ぼぉっと大きな屋敷に見とれていると古びた金属の音と共に赤井さんの家の門が開いたものだから心臓が飛び出るかと思った。
門の中からは、ピンク頭のほうの赤井さんが出てきた。知らないふりをして通り過ぎてしまえばいいものを、突然のことに軽くパニック状態に陥ってしまって呆然と立ちすくむ私を見て赤井さんは訝しげな表情をした。


「あの……何か?」


『へっ!?あっ、えっ、いゃ、その…っ!』


ヤバい、これじゃただの変質者だ。赤井さんの目が探るように鋭くなっていくのが分かる。そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか。いつもは煮干しをもって若干緩んだ表情で出迎えてくれるくせに。
猫で会う時の赤井さんを思い出して、少し落ち着いてくる。そうだ、怖くない、怖くない、深呼吸だ。そもそも、人間の私と赤井さんは何の関わりもないし赤井さんが私を認識することはないんだ。赤井さんにとっては私は初対面の人なんだから、それに誰が私と猫の姿が同一人物だと想像できようか。私ですらあの猫の姿が本当に現実だったのか怪しく思っているというのに。


『えっ、と。その。屋敷を見ていたら中から人が出てきてびっくりして…ハイ…』


コミュ症かよ!!!と心の中で自分にツッコんでしまう。だって無理だ。初対面じゃないどころか私この人に頭も背中もお腹も撫でられたことがあるのに今更どの面を下げて通行人Aに戻ればいいのか分かるはずがない。そもそも通行人Aってなんだ。どのくらいの距離間で話せばいいというのだろうか。
赤井さんは暫く私のことを観察していたが、どうやら背格好や言動、緊張を隠せない仕草を都合の良いように捉えたようだった。はっとした表情で「もしかして、工藤夫妻のファンの方ですか?」と聞いてくる。工藤夫妻と突然言われ誰のことか分からなかったが曖昧に頷いてみる。


「すみません、私はこの家に居候させていただいている身でして、この家の方は今は誰もいないのです。もし何か御用でしたら私から伝えておきますが…」


『あ、そうなんですね。それなら大丈夫です。ありがとうございます』


ぺこりと頭を下げて脱兎の様にその場から走り出す。ああああ緊張したぁあああ!絶対不審な女だと思われただろうな。でも構うまい。どうせ数時間後には猫の姿に戻っているのだから。
赤井さんの前で哀ちゃんの家に入るのはまずいと思い哀ちゃんの家を通り過ぎ走り去る。あんまり遠くに行っちゃいけないんだっけ。あの角を曲がって家に帰ろう。この世界はまだ私にとって危険すぎる。


「危ない!!」


スピードを緩めず曲がり角に差し掛かると、誰かの声と、眩しいライトが視界いっぱいに広まった。数秒遅れて私の頭が反応する。…車!跳ねられ……。

ぐいっと強い力で腕を引っ張られ、勢いのついた体は前に進もうとするが反対側に引きずりこまれた。首ががくんとなり、訳が分からないまま目の前を車が通り過ぎていく。

はっ、はっ、と走ったからか、間一髪命を取り留めた興奮からか荒い息が響く。誰かが腕を引っ張ってくれなければ今頃死んでいた。乱れる呼吸を抑えながら後ろを振り向く。


『あ、ありがとうございま…っ!!』


後ろには見慣れた顔があった。スカイブルーの、夜明けの様な瞳。


「大丈夫ですか?飛び出したら危ないですよ」


『あ…安室さ…っ!!』


言葉が思わず口をついて出てしまい、その後すぐにしまったと思った。安室さんの目に緊張が走る。そりゃそうだろう。私が安室さんの名前を知っているはずがないのだから。
どうしよう?少し距離をおいて安室さんの表情を伺う。安室さんは私の顔を必死に思い出しているように見えた。安室さんの瞳に私の顔が映っていてどきんと心臓が跳ねた。安室さんが私を見ている。猫の私じゃなくて、「私」のことを…。
もし、今ここで私が本当はタマだと言ったら安室さんはどうするだろう?頭のおかしな女だと一笑するだろうか。でも、私は知っている。安室さんの胸を、優しい腕を、撫でてくれた手の温もりを。
そう考えるとぎゅっと胸がつまったみたいに苦しくなって、もう息は落ち着いているはずなのにまたうまく息が吸えなくなった。


「…君、どこかで…」


言ってもいい?毎日顔を合わせている私自身がタマなのだと。そうしたら、これからも人間として私を扱ってくれる?


『あ、の…私は…』


「安室さーん!!もうっ、突然走って行っちゃうんだからびっくりしましたよ!」


染まった頬を冷たい風が冷ますのと、その声が聞こえてきたのはどちらが早かっただろうか。
小走りで梓さんがこちらに近づいてくるのと比例するように、私の中で膨れ上がっていたなにかはしぼんでいった。…なに、浮かれてるのよ。馬鹿じゃないの。私がタマです、なんて…。


『…ポアロに何回か行ったことがあるので。それで』


嘘ではない。安室さんは納得した様子でそうでしたかとほほ笑む。梓さんが着く前に逃げなければ。あまりこの姿を見られるのは良くない。
ありがとうございましたと頭を下げ、踵を返す。が、数歩進んだところで振り返る。


『あの』


「はい?」


『また、ポアロに行っても…いいですか?』


安室さんはどうしてそんなことを?と小首を傾げながらも笑顔で是非きてくださいと言った。ぐっと拳を握りしめ走り出す。風が頬に冷たい。思わず叫びだしたいような気持ちを抱えながら、今はとにかく哀ちゃんの家へと走った。



190201

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