トタン
□コラプス
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何も考えたくなくて、脇目も振らずただひたすらに走り続けた。
今足を止めてしまったら次から次へと抑えきれない色んな感情に押しつぶされてしまいそうで怖かった。
哀ちゃんの家へと駆け込み階段を下る。地下独特のコンクリートのにおいが安心するようで、同時に少し寂しい気分にもなった。結局私が帰らなければいけない場所はこの地下という空間に他ならないのだ。
地下室への扉を開けると、そこには誰もいなかった。照明を落とした薄暗い部屋にパソコンの画面だけが眩しく光っている。私はきょろきょろと哀ちゃんを探しながら、吸い込まれるようにそのパソコンの画面に近づいた。
真っ暗な部屋に機械的な光は少し目が痛くなるほど眩しかった。白い背景につらつらと並べられた黒い文字。論文か何かだろうか。目を細めてタイトルを読んでみる。
『マウス、の…遺伝子組み換え、に関するレポート?』
タイトルの下に著者の名前が書いてある。Sherry?外国の人が書いた論文だろうか?書いた日付はどうやら今から1年ほど昔のようだ。
どうしよう、これは、先を読んでもいいのだろうか。気になるような気もするが人のパソコンを勝手に触るのもなんだか気が引けた。呆然と立ちすくんでいるうちにがちゃりと扉が開いて、小さな影が部屋の中に入り込んだ。
「あら、おかえりなさい。思ったより早かったわね。どうだった?」
『…ただいま。…………』
「…どうかしたの?」
哀ちゃんを見た途端、なんともいえない燻ってしまった気持ちが顔を出して黙り込んだ。何も言わない私を不思議に思ってか、哀ちゃんが少し心配そうに声をかける。私と自分の前にマグカップを二つ置いて温かそうなコーヒーを淹れてくれた。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
『ありがとう。………』
何から何を、どう話していいのか分からずとりあえずコーヒーを一口すする。ほのかな苦味と甘みが熱をもって喉を通り過ぎていく。
「誰かに会った?」
はっとして顔をあげると、哀ちゃんはどこか悲しそうな顔で私を見ていた。その問いかけは決して詰問口調ではなく、まるですべてを分かっているかのような優しいものだった。
だから、私はこのおなかの中に抱えたどうしようもない感情を伝えることにした。
『…分からない。自分が分からない。何て言ったらいいのか分からないけど…。本当についさっき、この家を出るまでははやく人間に戻りたいって思ってた。…たぶん、今も思ってると思う』
「ええ」
『だけど…。私は、猫だったんだよね。そしてそれは誰も知らなくて、私が知ってることも、相手は知らない。それがこんなにも辛いなんて思わなかった』
そう。そうなのだ。口に出しているうちに考えが纏まってくる。そして、私が一番苦しかったことも、これから苦しいことも。
『…今まで私を大切にしてくれた人も、それは私が猫だったからなんだよね。もし私がずっと人間のままだったら、きっとその人たちとは知り合うこともなかったし私のことを見ることもなかった。…というか、人間に戻ったついさっきがそうだったんだけど』
私が初めから人間だったのなら、安室さんは私のことをどう見ていてくれていたのだろう。本当に数回ポアロに顔を出しているような人間だったのなら、少なくとも今日のような他人行儀の挨拶はしなかったはずだ。
…ううん。違う。別に他人行儀でも構わない。私が安室さんのことを知っていて、あなたの胸も腕も知っているのにあなたが私のことを認識すらしていないことが辛いのだ。
きっと私も安室さんのことを知らなかったら、こんなにも苦しくなることも無かっただろうに。
私だけが知っている。話せなくても思いは通じ合ったこともあったのに。今は話せるのに思いを伝えることもできないなんて。
哀ちゃんは短くため息をついた。
「だから、…言ったのに。知らないわよ。あなたが生きているってことが広まるかもしれないわ」
漸く人間に戻った時の哀ちゃんの言葉を理解した。不用意に出歩くな。喫茶ポアロには近づくな。…きっと哀ちゃんはなにもかも初めからお見通しだったのだろう。
出来の悪い子どもを叱るような言葉に反論もできなかった。すべて自分が悪いのだ。外に出て浮かれていた。助けてくれた安室さんともう少し話したいと思ってしまった。それは事実なのだから。
「……まぁ、あなたの気持ちも分からなくはないけどね。叶わないと分かっていても…少しでも、ほんの少しでも…希望があるのなら、って」
『……?』
哀ちゃんの瞳は酷く寂しそうだった。パソコンの光が逆光で、あまりよく見えなかったけれども、それでも。
『哀、ちゃ…ッ!?』
どくん、と脳天まで響くような心臓の高鳴り。身体の中心部からじわじわと熱が広がってくる。息がうまく吸えない。哀ちゃんが驚いた顔で駆け寄り、熱と脈を測る。
「ちょっと、大丈夫!?まだ1時間くらいしか経ってないのに…」
『う…ッ、ぁう……!!』
苦しい。苦しい。苦しい……!
声にならない声を絞り出す。苦しい。熱い。助けて。哀ちゃん。……安室さん…。
最後の最期に、苦しいあなたの名前を呼ぼうと声をひねり出したけれど、途中からその声は獣の声に変わっていた。
190221